ケアとしての哲学対話

※FBからの転載
先週、ABDと哲学対話を行った。様々な意見が飛び交う中、時折互いの立場で教育について感じる「膿」を出すような言葉も出てきた。制御しようかとも思ったが、教育という公の事業を考えるには、膿を出し切ること、それを聴いてもらうこと、敵がいると思っていた場所には敵がいなかったということ、違う立場で頑張っている人がいること、などを腑に落としていく過程が必要なのだと感じて、やめてしまった。それが良い判断だったかどうかは、まだ考えている。ここにその備忘録をかく。

哲学対話の根っこには「ケア」がある。問題解決ではなく、問題が解明されていくプロセス。解明とは、例えば”自分には敵がいる”、あるいは、”味方がどこにもいない”、という「認識自体」が問題を生み出していることに気づき、自分を心から配慮していくようなプロセス。認識の前提を問い、より良く生きる筋道をゼロから考え出していくことは、哲学の重要な機能だ。

自分の教育(学び、育ち)についての認識が、根っこで癒され解明されていないと、子どもと社会にそのツケがいき、回り回って自分にやってくる。それを「怒りの教育学」と呼ぶ。自分が体験した過去の傷を昇華できるような教育を理想化してしまう。その傷を、そこから出ている膿を、まずは出し切ることが必要だと感じている。

オープンダイアログのように、ゆるくしなやかに配慮された場所で膿を出し切り、前を向けるような機会がなければ、おそらく再び「教育の振り子」に揺り戻しが起きるだろう。過去の亡霊の雪辱を晴らすためだけに、未来が使われてしまう。現在この国で起きていることと同型である。トップダウンで下ろしてしまうと、傷が起きやすい。今必要なのはベストプラクティスの共有と横展開ではなく、膿を出し切った上でどこへ向かいたいかを腹で決めていくような、哲学的な対話の場なのではないか。

そんなことを考えている。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中