ネクストステージの罠

※FBからの転載
発達段階のように、何らかのプロセスをステージの変化として捉える、段階理論(stage theory)のメガネで、いろんな物事を切り分けるのが当たり前になってきてるのかなぁ、と思う。最近のティール組織などの流行はもとより、古いとこでいえば唯物史観や、前近代、近代、ポストモダン、ポストポストモダンみたいな時代の切り分け方も形式的には段階理論的だ。

この段階理論のよいとこは、自分(たち)や相手の立ち位置がわかりやすいことだ。だからこそ、自分や相手を「能力も認識も、生まれつき一生変わらない存在」と見るのでなく、ある段階にいるひとと見ることで、その成長や発達の仕掛けを構想していくことができるようになる。

しかしもちろん、あらゆる理論には限界があるように、良いところだけではない。それは最高のステージへと続くネクストステージなるものがあると盲目に信じてしまい、自分や相手も含め、ある発達の状態にあるひとを「低いステージにいるひと」と見なして差別的な態度に出てしまうことなどがある。

実際、ステージセオリーは部分的に修正されたり(多重波理論)、根本的に疑義を挟まれたりもしている(パパートなど)。ステージは階段を登るようなものと認識されているけど、本当にそうだろうか。むしろ、本質的にはいろんなステージがフラットに存在していて、ひとはいろんなステージで上演ができるようになっていくのではないか、などなど。

旗を降るためには、ネクストステージを描くことは重要だし、社会の課題を解決するということはまさにネクストステージへとみんなで階段を登れるようにすることだというのはよくわかるのだけれど、そのネクストステージを信じることの意義と危険性にも配慮していかないとなぁ、と思う新幹線のなかなのでした。これから伊豆で合宿&ワークショップです。(写真はこの前とった母校の桜です。綺麗!!)

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