【4月いっぱい、哲学書の反転授業動画を公開します】

どうも、桐田です。このブログに書くのも久しぶりです。ご存知ない方もいらっしゃると思うのですが、桐田哲学堂という哲学教育のサービスを、こっそり始めていました。 今回は、そこで作ってきた動画を公開します、というお話です。

#StayHome の流れのなか、自分にできることはなんだろうと考えて、今回読書のお供にと「哲学登山」(哲学書を少人数で読み合うプログラム)の反転講義動画を一部公開することにいたしました。

内容は、自由をテーマに、ヘーゲル、ミル、アーレントと哲学書を巡っていく「自由登山」。
次に、現在進行中の探究をテーマに、古典的プログマティストの哲学書を巡っていく「探究登山」。

今回公開するのは自由登山の講義全てと、探究登山のイントロダクション、合わせて6本です。

なかにはKindleで買える本もあるので、本を読みながら聴くも良し、家事の合間に放送大学の要領で(?)流しっぱなしにするも良し、です。

一人ひとりの自由や、探究心を大事にする社会を作っていくための見えない地ならしのようなことを、ずっと哲学はしてきました。

自分の説明が要領を得ないところもあると思いますし、専門の方からすると怒られるところもあるかもしれませんが、哲学者たちの努力の一部でも、皆さんに伝われば幸いです。

※追記:難易度を設定しました。難しいものも読んで、わかったふりをするのでなく、「わからないことを楽しむ」ことをモットーにしていますが、やさしめのものが知りたいということもあるかと思い、追加しました。
時節柄おすすめなのはミルの『自由論』です。民主主義と少数派の問題など、アクチュアルな議論もたくさんありつつ、読みやすいです。
【自由登山】
イントロダクション
哲学書の読み方について
https://youtu.be/tQeK364BECc

ヘーゲル「精神現象学」序文①
https://youtu.be/8UGX08wa5Ac
難易度:★★★

ヘーゲル「精神現象学」序文②
https://youtu.be/OHWsGZpKDqQ
難易度:★★★

ミル「自由論」第1章・第2章
https://youtu.be/738T-V8qEbs
難易度:★

アーレント「革命について」第3章・第4章
https://youtu.be/MjAW3C0fIyo
難易度:★★

【探究登山】
イントロダクション
伊藤邦武「プラグマティズム入門」序章・第1章
https://youtu.be/7bbaq7uzLv4
難易度:★

【映画評】新海誠『天気の子』(ネタバレあり)

見事、新海誠は映画監督へと成長した、と感じた。SFアニメ版『誰も知らない』(是枝裕和監督)というべき作品で、いわゆるセカイ系作家から、社会の課題にも世界観の問題にも触れた優れた作品となっている。社会の歪みを摘出するという点で黒澤明『天国と地獄』をおもい起こしたくらい、エンターテインメントに見せかけた「社会派」な作品にもなっている。

 

本作の主人公は一人ではない。主人公は「持たざる子どもたち」である。金も知識も文化的資本もないまま、自分を産み出し養育した大人たちも、義務教育課程で教え育ててきた学校の大人たちも「誰も教えてくれなかった人間社会の闇」を闇と知らずにその中に取り込まれていく、今この時にも生まれている子どもたちである。

大人を大人だというだけで敬わせ感謝させながら、「罪を犯す=人生を棒にふる」ものと決めつけ、その罪に近づいていく子どもたちを自己責任だとして救い出そうともしない、間接直接に確実に搾取していく大人たちのなかでも、自分の力の可能性を見つけだして生きていこうとしていく「持たざる子どもたち」である。

一人は、生まれ育った地域にもその学校にも、自分の居場所を見出せず東京に一人でてくるものの、ネットカフェ難民になりさらに一層居場所を喪失しつつ、たまたま知り合った大人に労働場所を与えられ良好な人間関係も築いていきながらも実質的には搾取されている16歳の男の子である。もう一人は、母を失い弟と二人取り残されたけれど施設に入ることを拒み、年齢を偽ってハンバーガーショップでの夜間のバイトをしていたものの、偽証が判明しクビになったために売春をするしかないと考え契約してしまう15歳の女の子である。

この持たざる子どもたちが、しかし自分を搾取してくる大人たちも含めた「みんな」のことを考え自分の力の持ちうる可能性を確かめて、ともに生き延びようとしていった末に待っていたもの、それが(いくらかSF的な含みのある)「自然=世界」からの搾取であったところがこの物語を単なる社会派アニメでなく、SF的、ファンタジー的な想像力と接続させている。

誰もがその搾取の前では口をつぐむ他なく、「自然」から勝手にいけにえとして選ばれた人柱=犠牲者を救い出そうともせず、ただみんなのために死んでくれと告げて、いけにえになった当人も「みんな」のためにと自ら死を選ぶ他なかったような歴史を、この文明的な人間社会がそのベースに敷いていることは逐一史実を持ち出すまでもないだろう。なぜなら、それは今でも多くの土地にとっての「当たり前(自然)」であるからだ。

 

本来なら自己責任ですらない、この「人柱として選ばれた人が人で無くなることで正常に保たれる自然」という「世界の秘密」を知った上で、この世界観を肯定するか、否定するかというモラルジレンマを提起したことが、まずこの物語の白眉であろう。

さらに、この「世界の秘密」を知っている「持たざる子ども」と、秘密を知らないまま社会の維持を至上命題に搾取を続けていく「持てる大人たち」、そして世界の秘密は知らないが子どもたちの置かれた状況を理解できる「持たざる大人」が、一同に会するラストシーン。

このシーンで、上のモラルジレンマが実質ジレンマとして成立しない不幸な状況のなか、それまで大人たちに敬語を使い搾取さえていることにも気付かずに生きてきた主人公のうちの一人である男の子は、「世界の秘密」を知りもせず自分たちを勝手に祭り上げたり貶めたりする「大人たち」に銃口を向け激昂する。そして彼の向ける銃口越しに、彼の悲しい表情が見えるカット。このカット越しに、彼は私たちにも銃口を向けていると解釈すれば、どうか。

 

この映画の中には、裕福な暮らしをしつつ昔を懐かしみ現代の子どもを哀れむ老婆、高級タワーマンションで生活をする子ども(この子は少しだけ世界に触れる)とその子どもの声に無関心な母親など、社会と子どもたちに無関心な「持てる大人たち」もまた描かれている。

ここで彼が銃口を向けているのが、たまたま「持てる」側に回った大人たち、たまたまその大人たちによって養育された子どもたち、そしてたまたま「世界の秘密」の人柱として選ばれずに生き延びた子どもたちや大人たちの、自分や自分の大事な人以外の誰かなら犠牲になってもいいから「明日もこの大事な人との当たり前の日常が続いて欲しい」というエゴだとしたら。そのエゴは、まさにこの映画を楽しみに見にきた多くの人のそれと同型である。

こうして彼はまさに、秘密も知ろうとせず、救ってもくれず、ただ自己責任だと見捨てエゴを押し付けてくる大人たちに対し、世界の秘密に気づいた「持たざる子ども」として発砲する。この発砲を断罪するとしたら、私たちは子どもたちに対してどんな教育をし、大人たちとともにどんな社会を構想すれば良いのだろうか。

 

またこの「世界の秘密」が、前作『君の名は。』とも対をなすような物語の設定になっていることにも唸らされた。この対をなす設定によって、この列島の自然は人を救いもすれば搾取しもする両義的な存在であること、そして自然の方は「人間のことなどおかまいなし」なのだという無常的な自然観(その点で『蟲師』に近い)をベースに敷き、たまたま事故で死んだり無残に殺されたり誰も実情を知らないまま声を上げることもできず搾取され続けたりするような定めを生み出す人間社会の闇をその上にコーティングして、それでもこの自然と社会の矛盾を抱えた一人の人間として生きていくことを選択するという結末へと進んでいく。この結末からエピローグへの流れを「開き直り」のように見えるという評も見聞きするが、とんでもない。

あの結末からのエピローグの流れは、世界からも社会からも搾取されていた「持たざる子どもたち」が、身近な一人の人間を犠牲にして成り立っていく日常の世界を否定すること、つまり「これまで誰かが自ら犠牲になることで成立してきた当たり前の日常的世界」を維持することを否定するという選択を、自分の責任で行なったと自覚し、引き受けていくプロセスなのだ。

 

二人は、世界や社会のあり方の選択を人任せにするのでなく、そのような選択のあることすら知らずに無知なまま生きるのでもなく、そのような選択があることを知ってもそれは自分にはどうしようもないもので、誰も自分ゴトとして引き受けることすらできないもの(もともと狂っているもの)として諦めるのでもない、自ら選択した自分たちを知っているのである。

そんな主人公たちに声をかけるとしたら、こんな風に言えるだろうか。君たちは、他の同世代の世界の仕組みや社会の闇について無知な若者や、たまたま人間社会で持てる存在となり人柱にも選ばれなかっただけの無知な大人たち、また仕組みに気づいてはいるが結局世界や社会の狂気の所為にしてしまう大人たちとは違って、自らの意思で「世界の秘密」を知った上でジレンマに直面しながら、世界をつくりかえることすら選択していける人間として成長している。

そう、雨に沈んだ東京を前に祈り続ける君と、祈り続ける彼女を見て彼女があの日以降に引き受けてきた心情の全てを理解した君は、元来の言葉通りの意味でも「大丈夫」、すなわち真の意味での「大人」だ、と。

 

最後に。エンドロールに流れるRADWIMPSの『大丈夫』、そして『愛にできることはまだあるかい』にある歌詞は、見事にこの物語世界の核を詩で描き出すとともに、しっかりと観客たちにこれからの現実世界での「選択」を呼びかける歌であるように感じた。

数えきれぬほどの憎悪と許し合う声が混在とする狂気とともに生きる私たちが、世界の問題と直面することは容易ではないし、単なる抽象的な課題のように取り組まれても形骸化は免れないだろう。地球環境を保護しよう、相対的貧困を解消しようと謳っても、それが正しいことだから行うとすればそれは形骸化するか対立を招くものとなるだろうが、なぜ今私たちが行わなければいけないかという深い動機をうたうことによって初めて人は動く。

実際、私たちは自分にとっての大事な人が、自然や社会によって搾取されることへの憤りから社会課題の解決や世界的課題の問題へと視線を変えることができる。ラブストーリーは今や数多く語られ、ラブソングは数多く歌われてきた荒野のような現代において、改めて私たちは愛が持つ力について再考すべき時なのではないだろうか。

 

君と分け合ったことで生まれた愛だからこそ、君への愛に基づいてできることが必ずある。それは世界や運命や未来を変えるような選択を、世間的に正しいから、誰かが正しいと言っているから、社会的に効率的だからと言った理由からでなく、誰も答えが見出せない中で自分で考えて引き受けるという行動なのである。

そしてその行動は天の気分にも、人の気分にも寄らず、自分の愛に基づいていることを自覚することで初めて可能になる。愛の成就を願ったり祝ったりする単なるラブソングではない、「愛にできること」を問いかけたこの歌でまさに閉幕する本作は、他ならぬ私たちにとって愛が私的に閉じこもるようなものでなく、社会へ、公へ、ひいては世界へ繋がる力を持つものであることを訴えている気がするのである。

そんな風に狂気の中でたまたま死んだり搾取されたりする定めにありながら、愛をもってもがいている私たちを醜いものと捉えるか、綺麗なものと捉えるか、それに応えるのは私たち一人一人に委ねられているのである。

ネクストステージの罠

※FBからの転載
発達段階のように、何らかのプロセスをステージの変化として捉える、段階理論(stage theory)のメガネで、いろんな物事を切り分けるのが当たり前になってきてるのかなぁ、と思う。最近のティール組織などの流行はもとより、古いとこでいえば唯物史観や、前近代、近代、ポストモダン、ポストポストモダンみたいな時代の切り分け方も形式的には段階理論的だ。

この段階理論のよいとこは、自分(たち)や相手の立ち位置がわかりやすいことだ。だからこそ、自分や相手を「能力も認識も、生まれつき一生変わらない存在」と見るのでなく、ある段階にいるひとと見ることで、その成長や発達の仕掛けを構想していくことができるようになる。

しかしもちろん、あらゆる理論には限界があるように、良いところだけではない。それは最高のステージへと続くネクストステージなるものがあると盲目に信じてしまい、自分や相手も含め、ある発達の状態にあるひとを「低いステージにいるひと」と見なして差別的な態度に出てしまうことなどがある。

実際、ステージセオリーは部分的に修正されたり(多重波理論)、根本的に疑義を挟まれたりもしている(パパートなど)。ステージは階段を登るようなものと認識されているけど、本当にそうだろうか。むしろ、本質的にはいろんなステージがフラットに存在していて、ひとはいろんなステージで上演ができるようになっていくのではないか、などなど。

旗を降るためには、ネクストステージを描くことは重要だし、社会の課題を解決するということはまさにネクストステージへとみんなで階段を登れるようにすることだというのはよくわかるのだけれど、そのネクストステージを信じることの意義と危険性にも配慮していかないとなぁ、と思う新幹線のなかなのでした。これから伊豆で合宿&ワークショップです。(写真はこの前とった母校の桜です。綺麗!!)

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ケアとしての哲学対話

※FBからの転載
先週、ABDと哲学対話を行った。様々な意見が飛び交う中、時折互いの立場で教育について感じる「膿」を出すような言葉も出てきた。制御しようかとも思ったが、教育という公の事業を考えるには、膿を出し切ること、それを聴いてもらうこと、敵がいると思っていた場所には敵がいなかったということ、違う立場で頑張っている人がいること、などを腑に落としていく過程が必要なのだと感じて、やめてしまった。それが良い判断だったかどうかは、まだ考えている。ここにその備忘録をかく。

哲学対話の根っこには「ケア」がある。問題解決ではなく、問題が解明されていくプロセス。解明とは、例えば”自分には敵がいる”、あるいは、”味方がどこにもいない”、という「認識自体」が問題を生み出していることに気づき、自分を心から配慮していくようなプロセス。認識の前提を問い、より良く生きる筋道をゼロから考え出していくことは、哲学の重要な機能だ。

自分の教育(学び、育ち)についての認識が、根っこで癒され解明されていないと、子どもと社会にそのツケがいき、回り回って自分にやってくる。それを「怒りの教育学」と呼ぶ。自分が体験した過去の傷を昇華できるような教育を理想化してしまう。その傷を、そこから出ている膿を、まずは出し切ることが必要だと感じている。

オープンダイアログのように、ゆるくしなやかに配慮された場所で膿を出し切り、前を向けるような機会がなければ、おそらく再び「教育の振り子」に揺り戻しが起きるだろう。過去の亡霊の雪辱を晴らすためだけに、未来が使われてしまう。現在この国で起きていることと同型である。トップダウンで下ろしてしまうと、傷が起きやすい。今必要なのはベストプラクティスの共有と横展開ではなく、膿を出し切った上でどこへ向かいたいかを腹で決めていくような、哲学的な対話の場なのではないか。

そんなことを考えている。

プレイフルな理科

先日、とっても面白い授業をしているといろんなひとから聞いていて、前から伺ってみたかった某中学校の理科の先生の授業を、ついに参観することができた。いやぁ、楽しかった!

理科だけど、図工や美術に近い場の設定。生徒たちはその日に取り組んでみたい実験を教科書のなかから選んだり、自分たちなりに編み出したりしている。

大まかにプランができあがると実験室に置かれた実験器具(この日は光の屈折の単元だったので、焦点距離を計測できるレールに、凸レンズ、赤と緑のアクリル板がついた電球、そして像を結ぶための平板)を持ち出してくるが、生徒たちは器具を「躾け通り」に組み立てるのでなく、じぶんなりの問いを持って新たに付け足したり、取り除いてみたりする。

たとえば凸レンズを三連続で等間隔で並べるとどうなるんだ??とか、明るさを増やせばくっきりするんじゃないか?と電球増やしたりとか。前者ではもちろん実像と虚像が同時に表れたりするが、それがなかなかに不思議でかつ魅力的な現象なのだ。

そして、3つのうちどれが虚像を生み出し、どれが実像を生み出しているかを、三連凸レンズのそれぞれを“いじくる”ことで、オンタイムで理解されてくるのだ。「これじゃね?これじゃね?」「あっ、これだ!」

くわしく描写できないのがもどかしいが、おそらくオーソドックスな理科の授業なら、こうした操作(遊び心に溢れた!)を許容しないだろう。

しかしこの遊び心ある操作から“試行錯誤”が生まれ、既にもっている素朴な科学的概念と実験的状況での発見とのすり合わせや修正がおきる。

一言で言えば、自ら編み出した遊び心ある操作によって、生徒たちにとって繰り返し試そうとする内発的なモチベーションが起きており、この繰り返し〈同じ操作〉を試すと〈同じ結果〉になっていく不思議から、科学的概念と法則への洞察が育まれていく素地が出来上がってくるのである。

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↑余談だが、理科にはやはりファラデー『ロウソクの科学』にある、
生活と科学が繋がっていると実感している、遊び心ある感性がいいなあ。
「この宇宙をまんべんなく支配するもろもろの法則のうちで、ロウソクが見せてくれる現象にかかわりをもたないものは、一つもないといってよいくらいです」

その日参観に来ていたのは、現職の先生や、内地留学している先生、日本各地を飛び回っている先生、保育とアートを繋いでいる方など、なかなか異種混合な授業参観で。みなさんとの授業振り返りもなかなか刺激的だった。

授業場面のひとつひとつには、新たな教育文化の発展--ひとは実際いかにして学ぶことができるのか、についての知見と実践--に繋がる発見(発明)があり、先生が挑戦してきたことが結実してきた煌めきがあるのだ。

このおもしろさを社会のみんなといつか、共有したい。

教える人として生き続けられる世界をつくる --クランディニン教授講演会感想記--

昨日、自分が修論の頃から使用している研究手法である「ナラティブ探究」の生みの親の一人、ジーン・D・クランディニン教授の講演会@学芸大に向かった。

かつて『教師教育』という雑誌で彼女の理論と実践研究を紹介した折に、この文面で間違いがないかなどメールのやり取りは少しさせていただいたのだけれど、面会は昨日が初めて!いやあ緊張したあ。

実際にお会いしてみると、「ああ、この人だからナラティブ探究を生み出せたんだなあ」と感じ入る方で。表情豊かに、でも静かに教師とその世界を優しく共感するベースを持ちながら、かつ理論的な背景による指摘の鋭さもあわせもちながら相対してきた人なんだなあと。一層、ナラティブ探究を用いてもっと深めていきたいと感じたのでした。

講演の内容は、当日ハイクオリティの通訳&資料の翻訳をされていた都留文科大講師の山辺さん(余談だけれど若手教育学者たちが本当にハイスペックで恐縮する)が正式に報告されることと思うので、徒然なるままに書き散らしている本ブログでは、いくつかの論点とそれに対する個人的な感想を。

自分なりに講演をワンセンテンスでまとめると、

「教師を職員として“就き続けさせる”(Retain)ための教員養成から、教師が一人の教える人としての人生を“生き続けられる”(Sustain)ための教師教育へ」

と言えるのではないかな、と思った。(このsustainという用語が講演のキータームであった。当日は離職がイシューとなっていたこともあり、“踏み止まる”という「皆」の意を得たりの名訳がなされていたのだが、本ブログでは文章の流れから“生き続けられる”という言葉を使った)

博士によると、若手新任教員の早期離職がカナダでもアメリカでもソーシャルイシューになっているのだという。先行研究でのイシューの観点をまとめると、(教員の離職によって)児童生徒のアチーブメントの不安定化、離職した教員を補充する教員の再研修に費やされる経済的コストの増加といった課題が挙げられているのだという。

アメリカの研究では、教科内容知識(pedagogical content knowledge)をきちんと養成課程で教えていると、離職率が減少するという結果もあったらしいが、博士たちがカナダで調査したところ、教科内容知識は離職率の説明要因として不十分であるとの結果が出たとのこと。

実際、このイシューは、知人友人から見聞したリアルなエピソードや、自分自身も実践者になって感じた経験を踏まえてもとっても複雑だ。離職をシステム的な問題と捉えると制度的な解決策(メンター制度の充実など)を与えて事足れりとしてしまうし、

一方個人的な心理的特性の問題と捉えると、バーンアウト傾向のある教員をレジリエンス(耐性)の“欠落”(deficit)した教員として見なす危うい解決策を認めるようになってしまう。つまりは、イシューに対して採用するその人の視点(前提)が、複雑なイシューの問題点とその解決策を一面的に規定してしまうのである。

では、どうしたら? まずは、若手教員にいま一体何が起きているのかを知ることが第一だ。

そこで博士たちは、55名の教職2〜3年目の若手教員たちへのインタビュー調査と、6名の離職経験のある教員へのナラティブ探究を行ったそうだ。質的研究計画マニアとしてはこの研究設計に痺れる。

その調査結果を一言でまとめるなら、自分の教員としての人生と、一人の人間としての人生との間に溝が生まれ、その間の葛藤を対処できなくなっていったときに、離職を選んでしまうということだ。

たとえば、日々学校外の場所で送られる、一人の人間としての尊厳ある人生が、学校の“多忙さ”によって全て吹き飛ばされてしまったようなとき、自分の人生が教育に全て持ってかれてしまっているこの日々は“いつまで”続くのだろうかと「離職」が脳裏をよぎる。

養成課程でえた教科内容知識のみでは対処できない、良かれと思って多く与えられるOJTの研修や、新任たればこそ進んで引き受けなければと感じる分掌業務など、目の前のリアルな学校文化と自分の(教員)人生のあり方を巡って調整・交渉していくスキルが求められる。だが、そうしたスキルが必要になるということを養成課程では教わらないし、実際カリキュラムの中にもない。

この辺り、日本の教員文化は「教師」=「プライベートも全て仕事に注ぎ込むべき職業」というイメージや認識がまだまだ根強く残っていることを考えると、このイシューが「問題提起」として受け取られるかどうか不安もある(講演会でもその不安は共有されていた)。

近年解明が進んでいるが、以下に紹介する教育社会学者の舞田先生のブログにもあるように、日本の教員は世界的にみて多忙にすぎるし、「新任はなんでもやるべき」といった文化があるからか、一層課外活動などの指導を任され、多忙へと向かってしまう傾向があるように思う。(ちなみに博士によると、カナダにもこの「新任はなんでもやるべき」文化があるらしい)

「教員の病気離職率」(2017/9/24)

「中学校教員の年齢層別の課外活動指導時間」(2016/2/23)

「教員の職業満足度の国際比較」(2014/12/16)

「病(辞)める教員」(2013/11/17)

これらの調査の結果から、博士たちが得た考察を自分なりにワンセンテンスでまとめると、

「一人の教員としての教職人生を支えるストーリーと、一人の人間としての生き方を支えるストーリーとを織り合わせ、教える人としての人生を“生き続けられる”教師教育が必要だ」

ということだと思う。これは単純に、専門的な教師の世界に、個人的な世界観を持ち込むべきというような話ではない。自分自身がこういう人間になりたい、という個人的なアイデンティティに基づいて、こういう教師になりたいという教員アイデンティティが紡がれるということなのだ。

どんなに優れたベテラン教員であったとしても、教員人生で身につけた専門的な知識は、学校の内外で体験してきた、教員になる前から培ってきた、本人の個性的の世界観・人生観に基づいて生み出されているのである(この主張は、俺自身が修士時代に、図工専科のベテラン教員の皆さんへのナラティブ探究で身にしみた結論そのものだったので、激しく同意した)。

専門用語でいうなら、こうした個人的なアイデンティティのストーリー(個性的な知識の風景 personal knowledge landscape)と、教員人生を支えていく教師としてのアイデンティティのストーリー(専門的な知識の風景 professional knowledge landscape)とを、分離させるのでもなく、どちらかを優先させる(べき)という在り方なのでもなく、ともに一人の人間の中で相補的に織り合わされていけるような教師教育を実践していくことが大事なのだ。

では、こうした教師教育はどのようにしてなされるのだろうか。博士は、学生や教師とともに「自伝的なナラティブ探究」(autobiographical narrative inquiry)を行い、自分は何者なのか、なぜ教師になりたい/教師を選んだのか、どのような体験が自分の教師としての軸を創り出したのかについて、協働的に探究しているという。こう言うと仰々しく感じるかもしれないが、以下に述べるようなワークショップ形式で探究されているそうだ。

たとえば自分の人生を時系列的にタイムラインを描いて整理したり、ある日の写真を持ち寄ってもらい、その写真の前後関係や写真に写っている人たちとの関係性を語りながら自分の人生について振り返ったり、普段身につけているものの背景を探究することで自分のアイデンティティを探究したりなど。こうしたさまざまなアプローチを繰り返し行うことで探究していく教師教育実践の事例を報告してくださった。

改めて、ナラティブ探究の世界観とアプローチには、激しく頷かざるを得なかった。話を聴きながら、何度共感したかしれない。講演後の質疑応答の際に、僭越ながら2度も質問をさせていただいたのだが、それぞれとっても参考になった。

長文になってしまったが、こうした教師教育を実践していける場を、微力ながら創造していきたい。

そう、強く思った。

先生の“愛らしさ”

学校を巡り始めて以来面白い先生たちと出会い、先日もその機会を得たのだが、そんな先生たちと話をしていて改めて思った。

先生って“愛らしい”!笑

そんな感情を抱いているとは思っていなかったので、「なんじゃそりゃあ」と自分自身ちょっとびっくりしたのだけれど、やっぱりどう考えても愛らしいのである。無論、愛らしいと言っても、見た目の可愛さとかの話ではない。

なんでそんな感情を抱いているんだろうかと、ちょっと振り返ってみた。

まず、至極バラエティに富んでいるキャラクターひとつひとつが“愛らしい”。

先生はなぜか、付き合ってみるとみんなキャラが「濃い」。その濃さは、外部から見ると並々ならぬほどのものがある。

対して、いわゆる社会人の人と出会うと、職種ごとに結構似通った気質や言葉を使うようになっていて、異業種で出会っても世間話で出るのは主に出世や景気、業種内のあるある話、外部とのコネクション、ネットワークの話に終始することが多いように思う。

けれど、先生たちは教科担任にせよ学級担任にせよ主任にせよ、結構自分の「こだわり」があって、そこについて極めて行こうとする職人気質なところがある(と自分が出会って来た先生を振り返って思う)。だからか、話していると「その道の職人さん」と話している気になる。つまり、一人一人のこだわりの世界観を見せてくれる人たちなのである。

さらに先生は、先生というあり方を選び、先生であることに悩み、先生であることとは何かを考え、先生でい続けるために何が必要かを探り続ける。ドラマティックかつリアルな発達プロセスが、一人一人の中にある。

そのリアルなドラマが、普段の会話の仕草の中、振る舞いの中に垣間見えるのが、「先生」という人たちの愛らしいところだなあと思う。

次に、社会の「ふつう」にいい意味でとらわれていない感覚が“愛らしい”。

社会の政治・経済の営みの中に「学校」が存在しているのは「当たり前」だし、その営みが学校にどのように影響を与えているかがしばしば不透明になりやすいために、教育の様々な格差問題が発生していることも確かだ。

けれど、それでもその社会の中で、社会とは少々異なる独自の論理で生きようとしている生態系だからこそできる、いろんなことがあると思う。

例えば、政治の原理原則を自分なりに問い返す視点を「ふつうに」広言できたり、学び合えたり、より納得できる原理原則はないかと考え合い、そのアイデアの不備を指摘しあえる場所を創り出すなんて、社会の中じゃなかなか「普通」にできないことだ。

政治の季節真っ只中の昨今、そうした社会への問い返しが「普通」にできないという「異常さ」のツケがいろんなところで回り回って出て来ていると思うけれど、学校に生きる学び手たちは、社会のリアルを目の当たりにしながら、その「異常さ」に気づいていける。

その異常さを異常だと、認められる場所。そんな場所を創り出そうと、懸命に学校で生きる先生たちは、社会の当たり前にとらわれない発想ができる人たちだと思う(もちろん、学校もまた「一つの社会」であり、そのメリット・デメリットもあるのだが、本記事の趣旨とずれるためここでは割愛する)。

学校は、穏健的な社会改造のための装置でもある。そのことに自覚的な先生は、愛らしいだけでなく”格好いい”とも思う。でもその格好よさは、いわゆる「リーダー」のような、先頭切って群衆の前に立つような格好よさではないのだ。

主人公は学習者であることを知っていて、その主人公が歩む険しい山脈をともに歩み支援していく、シェルパのような人を想像してほしい。

嵐の時に指針を渡し、吹雪の中でキャンプをともにし、その中で苦いコーヒーをともに飲む。そしてシェルパは、主人公が登頂する道のりをともに歩みながらサポートし、主人公が登頂できたにしろできなかったにしろ、その感情に共感するのである。

その格好よさって、とっても愛らしくないだろうか?

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重松先生の授業分析の思想

授業分析は、現代ではあまり注目されていない研究手法だとは思う。けれど俺としては、実際の授業研究の手法としてまだまだ可能性がある手法だと感じている。特に、重松先生のそれは自分にとっては、普段の授業をみるときのベースになっている。

まとまったかたちで、いつか重松先生の授業分析の思想を紹介したいのだが、まずはこのまえがきの文章を紹介したい。

「わたくしの最も嫌いなことは、現場の教師が軽視されることである。社会の人からはもちろん、教師の仲間からでも、教師その人からでも、教師を侮蔑した言葉を聞くと、心の中で煮えくりかえるものを感ずる。
「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という表現の裏にある、教師侮蔑の実態と戦おうと思ってからもう三十年あまり経っている。それだけにまた逆に、どういう点で、教師が軽視されるか、なぜ尊敬と軽蔑、力と無力とが交錯してくるか、ということについて、思い患ってきた。
わたくしにとって授業分析は、その戦いの一局面である。授業を、日々新たな営みとして、教師自身をみがき、その若さを永遠に保たせるものにするのに、この本が役立つことを望んでいる。
記録の中にあらわれてくる先生方や子どもさんたちは、実在の人である。わたくしの非力の故にその姿をとらえようとして誤っていることが多くありはしないかと、恐れている。非礼の点について御寛恕を乞うと共に、生き生きとした動きによって、わたくしの眼を開いてくれた子どもさんたちに、感謝する」(重松鷹泰『授業分析の方法』まえがき)

このまえがきを読むと、姿勢を正される思いがすると同時に、先生が軽視される状況は60年近く経ってもあまり変化していないかもしれないと感じてしまう。例えば最近、「学校のなかにしかいなかった先生より、学校外から転職した先生の方が、発想が豊かですよね」云々の話を、特に教育外の方からよく聴く機会があった。

確かに傾向としてあるかもしれない。でもそれは、ある仕事場のなかにある、他の社会にはないルールのなかで考えることがクセになるということであって、どの社会人も同じ傾向なのじゃないかしらと思う。外部の視点が内部の視点より良い視界も持ちうるということでしかない。

事実、新卒から教師をやっているひとで、ものすごい発想で学校にアートをゲリラ的に仕掛けちゃう先生もいるし、学校に自分でカリキュラムを作り上げちゃう先生もいるし、

企業連携どころか、地域の根深い差別を無くしてしまう働きかけを、子どもたちが生み出していく授業を創り出した先生すら、日本にはいたのだ。

先生の専門性は、教え方がうまい、新しい発想ができるといったことではない。先生が目ざしているところはそんなレベルではないのである。

こういう、教師の意義ある実践の歴史が知られていない背景には、教育実践史がまだまだ人口に膾炙していないことによるのかな、とおもう。

美術に美術史があり、地域に地域史があるように、教育実践には教育実践史があるのである。比喩的にいえば、その歴史にはダヴィンチのような先生もいれば、キング牧師のような先生もいるのである。

そしてその先生たちの面目躍如たる歴史の場面は、やはり授業なのである。その授業のもつ力を見えるようにし、教師自身がそれを活かせるようにしようと考えるこの視点こそ、授業分析の思想の本質に他ならないと、俺は考えている。

ちょいと横道にズレてしまったけど、言いたいことは共通しているはず。

先生、戦いましょう。

教育は再現可能か?

この問い、かなりぶっこんでるなあと自分でも思う。しかし、いろんなところで想定されているこの再現性の神話と科学とを区別して論じないと、おかしなことになるなとひしひし感じている。

結論から言えば、教育は方法と効果の因果関係を想定するなら、再現可能に見える。

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↑厳密には、「A+B=C」のような、構造式を想定するならば。
AにBを投入すれば、Cになる、というわけだ。

事実、応用行動主義的な実践は再現性が高いと思われる。何を強化子にするか、そしてそれを強化する目的が教育的に妥当かなどの問いから外れていなければ、この類の実践は有益だ。例えばいわゆる「褒めちぎる」「プラスな言葉を使い続ける」教え方は、そうした強化の論理を徹底する実践だと解釈できる。そうした教え方によって、どの先生でも一定程度、児童生徒をある行動から別の行動へと強化することはできるようにはなるかもしれない。

だから、再現可能性を高めようと努めることは、教育にも可能だということはできる。

けれど、そもそもの教育という営みを考えるに、<いかに><いつ><どこで>実践するかという点を抜きにしては語れない。その<いかに>は、<自信満々だったその子が初めてこの単元で悩み始めた時にいかに振る舞うか>、<教室をウロウロとしてしまうその子に厳しく叱りつけてしまった翌日、我慢していながらも少しずつウロウロし始めたその子にいかに振る舞うか>といった、とっても個別的具体的かつ一回きりの状況と不可分な<いかに>なのである。

その意味で、その状況と不可分な一回きりの実践は、決して再現可能ではない。再現性を求めている人にとっては、おそらくそうした主観的でプライベートにすぎる実践はもともとお呼びでないかもしれない。しかし、現場にいる中で一番関心が高いのは、こちらの再現不可能な、一回きりの今日の実践をいかに戦略的に構想し、即興的に実践していくか、なのである。

こんなことを考えたのは、最近EdTech関連で再現性についての主張(再現性が高くなければ投資することはできない)を見聞したのと、アイズナーの教育的鑑識眼についての論文の翻訳をコツコツと始めたことによるところが大きい。後者の一文を、以下に引用しておこう。アイズナーが教育的鑑定と教育的批評を提案する論文の序である。

私がこれから提案することは、科学的なパラダイムでなく、芸術的なパラダイムから始まっている。私は教育の改善というものが、大陸の至るところにある教室に対して、あるいは特殊な個性的特徴を持つ個人に対して、普遍的に応用できるような科学的な方法を発見しようとする試みの結果からのみ生じているわけではなく、むしろ教師やそのほかの人々を、自分のできることを見つめ、考える能力を成長させるための教育へと参加させることによって生じているという想定から出発している。学校で生じている教育実践は、何が起きるかを予測し、ましてそこで起きることを制御することなど決してできない偶然に満ちているのであり、非日常的で複雑に絡まった事態として生じているのである。
(Elliot W. Eisner (1977) “ON THE USES OF EDUCATIONAL CONNOISSEURSHIP AND CRITICISM FOR EVALUATING CLASSROOM LIFE” Teachers College Record, 1977, 78(3): 345-358.)

学校の教育実践を「非日常的で複雑に絡まった事態」と看破しているところが、さすがアイズナーという感じである。学校生活に親しんでいる人や、学校生活を舞台にしたものに親しんでいる人は、学校の環境を「当たり前」で「日常的」だと思っているかもしれないが、

例えば部屋が同じサイズでかっちり区切られており、ひとりにひとつの机と椅子が割り当てられ、決まった時間に決まった内容を決まった程度こなすよう義務が与えられ、その成果を定期的に測量される場所に3年間毎日行ってきてほしいと言われたと考えてみてほしい。

そう、社会の暮らしにとって、学校は生育環境としても労働環境としてもとっても特殊な場なのである。更に言えば、教えている内容も実はかなり非日常的である。

どう見ても太陽が地球の周りを回っているように見える「日々の暮らし」の中で、地球こそが太陽の周りを回っているのだと伝え、原子など実際に見たことのないにも関わらず、ものは原子からできていると“普通に”伝えるのだから。

そうした非日常な教室の世界で、日々の日常的な暮らしのような安心感を抱かせつつ、いかに非日常的に飛躍した世界を学習者に垣間見させ、浸らせ、血肉とさせるか。教師の仕事のすごさの一片でもわかってもらえたら幸甚である。

【読了】藤田正勝『日本文化を読む 5つのキーワード』

グローバル化の波にさらわれている中、異なる文化や歴史を持つ隣人たちと「対話」することの困難が、この島の至るところで叫ばれるようになって久しい。本書は、そうした対話を行うきっかけを作るために、日本文化の自画像を芭蕉のとある文章を導き手に探っていく。

読了しての率直な感想としては、日本文化の「個性」の一側面と言える「無常」の系譜を、情感を持って映し出してくれる読みやすい新書、という感じである。

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↑「飛花落葉」というタームがキーワードの一つになっているのだが、
桜だけでなく、全ての「花」や「葉」が散ることに無常を感ずる感性が勘所になりそう。

日本文化に底流している(と考えられる)「無(常)」を尊び味わう感覚・情緒を、西行、親鸞、長明・兼好、世阿弥、芭蕉、そして西田へと辿っていくのだが、それぞれのアクターたちの「無常」に対するアプローチや視座の違い、大陸の禅仏教等との影響関係、その絡まり合いについて淡々と整理されていく様が読んでいて愉しい。

もちろん、日本文化の全体像が「無常」という概念のみで描ききれるものではないことは、筆者も承知済みだろう。そんな中でも筆者が「無常」の系譜を取り上げたのには、筆者の嗜好もあるだろうが、伝統的な人格性(天皇、英霊など)の永続性を価値の最終根拠にしているナショナリスティックなマインドセットを崩していくような意図もあるのではないかと邪推する。

とある保守系雑誌の編集長が若かりし頃、虚しい現代的生活の中で自らのアイデンティティを探した末、「万世一系」に付託したそれを見つけ出したことを述懐した文章を読んで以来、この島での政治的対立は社会を構想するリアルな政策上の対立ではなく、理想的な「人格性」をめぐる対立、「アイデンティティ」確立の困難に基づいているのかもしれないと感じている。

かつての学生闘争が、資本主義社会の中でどのような「人格」であることを選ぶかという、実存主義とマルクス主義の“合いの子”として展開したことを考えると、上記の仮説もありえそうなことではないだろうかと考えるが、どうだろう。

実際、自分のアイデンティティを自ら模索し、具体的な隣人や家庭や地域との関係性の中で形作ろうとするのではなく、すでに用いている言語、すでに暮らしている国家体制、すでに埋め込まれている歴史に求めようとするマインドセットを持つに至っている児童生徒たちを塾などで散見したことがある。

もしそうした児童生徒たちが、「無常」を底流にした日本文化に親しむとしたら、どうなるだろう。ありのまま移りゆく「自然」の中で、名声や富などの欲望に振り回される浮世の無理を抱えながらも、道理に適った形で“自然に”生きる、今ここの無常な命をそれ自体で愛し価値づけることができるような哲学を持つ、クニになったとしたら。

よく「国破れて山河あり」というが、おそらく国も山河も人も無常なるものとして捉える認識論・存在論の中で、永続的な価値への固執を手放すような価値論を提起し、この列島民にとって親しみやすい政治哲学を構想することが、おそらく今後10年近くで必要になってくるはずなのだ。これはもちろん妄想に過ぎないが、本書はそんな、無常の哲学に基づいた「日本なるもの」の再構成を促す一助になるかもしれない。