【映画評】新海誠『天気の子』(ネタバレあり)

見事、新海誠は映画監督へと成長した、と感じた。SFアニメ版『誰も知らない』(是枝裕和監督)というべき作品で、いわゆるセカイ系作家から、社会の課題にも世界観の問題にも触れた優れた作品となっている。社会の歪みを摘出するという点で黒澤明『天国と地獄』をおもい起こしたくらい、エンターテインメントに見せかけた「社会派」な作品にもなっている。

 

本作の主人公は一人ではない。主人公は「持たざる子どもたち」である。金も知識も文化的資本もないまま、自分を産み出し養育した大人たちも、義務教育課程で教え育ててきた学校の大人たちも「誰も教えてくれなかった人間社会の闇」を闇と知らずにその中に取り込まれていく、今この時にも生まれている子どもたちである。

大人を大人だというだけで敬わせ感謝させながら、「罪を犯す=人生を棒にふる」ものと決めつけ、その罪に近づいていく子どもたちを自己責任だとして救い出そうともしない、間接直接に確実に搾取していく大人たちのなかでも、自分の力の可能性を見つけだして生きていこうとしていく「持たざる子どもたち」である。

一人は、生まれ育った地域にもその学校にも、自分の居場所を見出せず東京に一人でてくるものの、ネットカフェ難民になりさらに一層居場所を喪失しつつ、たまたま知り合った大人に労働場所を与えられ良好な人間関係も築いていきながらも実質的には搾取されている16歳の男の子である。もう一人は、母を失い弟と二人取り残されたけれど施設に入ることを拒み、年齢を偽ってハンバーガーショップでの夜間のバイトをしていたものの、偽証が判明しクビになったために売春をするしかないと考え契約してしまう15歳の女の子である。

この持たざる子どもたちが、しかし自分を搾取してくる大人たちも含めた「みんな」のことを考え自分の力の持ちうる可能性を確かめて、ともに生き延びようとしていった末に待っていたもの、それが(いくらかSF的な含みのある)「自然=世界」からの搾取であったところがこの物語を単なる社会派アニメでなく、SF的、ファンタジー的な想像力と接続させている。

誰もがその搾取の前では口をつぐむ他なく、「自然」から勝手にいけにえとして選ばれた人柱=犠牲者を救い出そうともせず、ただみんなのために死んでくれと告げて、いけにえになった当人も「みんな」のためにと自ら死を選ぶ他なかったような歴史を、この文明的な人間社会がそのベースに敷いていることは逐一史実を持ち出すまでもないだろう。なぜなら、それは今でも多くの土地にとっての「当たり前(自然)」であるからだ。

 

本来なら自己責任ですらない、この「人柱として選ばれた人が人で無くなることで正常に保たれる自然」という「世界の秘密」を知った上で、この世界観を肯定するか、否定するかというモラルジレンマを提起したことが、まずこの物語の白眉であろう。

さらに、この「世界の秘密」を知っている「持たざる子ども」と、秘密を知らないまま社会の維持を至上命題に搾取を続けていく「持てる大人たち」、そして世界の秘密は知らないが子どもたちの置かれた状況を理解できる「持たざる大人」が、一同に会するラストシーン。

このシーンで、上のモラルジレンマが実質ジレンマとして成立しない不幸な状況のなか、それまで大人たちに敬語を使い搾取さえていることにも気付かずに生きてきた主人公のうちの一人である男の子は、「世界の秘密」を知りもせず自分たちを勝手に祭り上げたり貶めたりする「大人たち」に銃口を向け激昂する。そして彼の向ける銃口越しに、彼の悲しい表情が見えるカット。このカット越しに、彼は私たちにも銃口を向けていると解釈すれば、どうか。

 

この映画の中には、裕福な暮らしをしつつ昔を懐かしみ現代の子どもを哀れむ老婆、高級タワーマンションで生活をする子ども(この子は少しだけ世界に触れる)とその子どもの声に無関心な母親など、社会と子どもたちに無関心な「持てる大人たち」もまた描かれている。

ここで彼が銃口を向けているのが、たまたま「持てる」側に回った大人たち、たまたまその大人たちによって養育された子どもたち、そしてたまたま「世界の秘密」の人柱として選ばれずに生き延びた子どもたちや大人たちの、自分や自分の大事な人以外の誰かなら犠牲になってもいいから「明日もこの大事な人との当たり前の日常が続いて欲しい」というエゴだとしたら。そのエゴは、まさにこの映画を楽しみに見にきた多くの人のそれと同型である。

こうして彼はまさに、秘密も知ろうとせず、救ってもくれず、ただ自己責任だと見捨てエゴを押し付けてくる大人たちに対し、世界の秘密に気づいた「持たざる子ども」として発砲する。この発砲を断罪するとしたら、私たちは子どもたちに対してどんな教育をし、大人たちとともにどんな社会を構想すれば良いのだろうか。

 

またこの「世界の秘密」が、前作『君の名は。』とも対をなすような物語の設定になっていることにも唸らされた。この対をなす設定によって、この列島の自然は人を救いもすれば搾取しもする両義的な存在であること、そして自然の方は「人間のことなどおかまいなし」なのだという無常的な自然観(その点で『蟲師』に近い)をベースに敷き、たまたま事故で死んだり無残に殺されたり誰も実情を知らないまま声を上げることもできず搾取され続けたりするような定めを生み出す人間社会の闇をその上にコーティングして、それでもこの自然と社会の矛盾を抱えた一人の人間として生きていくことを選択するという結末へと進んでいく。この結末からエピローグへの流れを「開き直り」のように見えるという評も見聞きするが、とんでもない。

あの結末からのエピローグの流れは、世界からも社会からも搾取されていた「持たざる子どもたち」が、身近な一人の人間を犠牲にして成り立っていく日常の世界を否定すること、つまり「これまで誰かが自ら犠牲になることで成立してきた当たり前の日常的世界」を維持することを否定するという選択を、自分の責任で行なったと自覚し、引き受けていくプロセスなのだ。

 

二人は、世界や社会のあり方の選択を人任せにするのでなく、そのような選択のあることすら知らずに無知なまま生きるのでもなく、そのような選択があることを知ってもそれは自分にはどうしようもないもので、誰も自分ゴトとして引き受けることすらできないもの(もともと狂っているもの)として諦めるのでもない、自ら選択した自分たちを知っているのである。

そんな主人公たちに声をかけるとしたら、こんな風に言えるだろうか。君たちは、他の同世代の世界の仕組みや社会の闇について無知な若者や、たまたま人間社会で持てる存在となり人柱にも選ばれなかっただけの無知な大人たち、また仕組みに気づいてはいるが結局世界や社会の狂気の所為にしてしまう大人たちとは違って、自らの意思で「世界の秘密」を知った上でジレンマに直面しながら、世界をつくりかえることすら選択していける人間として成長している。

そう、雨に沈んだ東京を前に祈り続ける君と、祈り続ける彼女を見て彼女があの日以降に引き受けてきた心情の全てを理解した君は、元来の言葉通りの意味でも「大丈夫」、すなわち真の意味での「大人」だ、と。

 

最後に。エンドロールに流れるRADWIMPSの『大丈夫』、そして『愛にできることはまだあるかい』にある歌詞は、見事にこの物語世界の核を詩で描き出すとともに、しっかりと観客たちにこれからの現実世界での「選択」を呼びかける歌であるように感じた。

数えきれぬほどの憎悪と許し合う声が混在とする狂気とともに生きる私たちが、世界の問題と直面することは容易ではないし、単なる抽象的な課題のように取り組まれても形骸化は免れないだろう。地球環境を保護しよう、相対的貧困を解消しようと謳っても、それが正しいことだから行うとすればそれは形骸化するか対立を招くものとなるだろうが、なぜ今私たちが行わなければいけないかという深い動機をうたうことによって初めて人は動く。

実際、私たちは自分にとっての大事な人が、自然や社会によって搾取されることへの憤りから社会課題の解決や世界的課題の問題へと視線を変えることができる。ラブストーリーは今や数多く語られ、ラブソングは数多く歌われてきた荒野のような現代において、改めて私たちは愛が持つ力について再考すべき時なのではないだろうか。

 

君と分け合ったことで生まれた愛だからこそ、君への愛に基づいてできることが必ずある。それは世界や運命や未来を変えるような選択を、世間的に正しいから、誰かが正しいと言っているから、社会的に効率的だからと言った理由からでなく、誰も答えが見出せない中で自分で考えて引き受けるという行動なのである。

そしてその行動は天の気分にも、人の気分にも寄らず、自分の愛に基づいていることを自覚することで初めて可能になる。愛の成就を願ったり祝ったりする単なるラブソングではない、「愛にできること」を問いかけたこの歌でまさに閉幕する本作は、他ならぬ私たちにとって愛が私的に閉じこもるようなものでなく、社会へ、公へ、ひいては世界へ繋がる力を持つものであることを訴えている気がするのである。

そんな風に狂気の中でたまたま死んだり搾取されたりする定めにありながら、愛をもってもがいている私たちを醜いものと捉えるか、綺麗なものと捉えるか、それに応えるのは私たち一人一人に委ねられているのである。