【4月いっぱい、哲学書の反転授業動画を公開します】

どうも、桐田です。このブログに書くのも久しぶりです。ご存知ない方もいらっしゃると思うのですが、桐田哲学堂という哲学教育のサービスを、こっそり始めていました。 今回は、そこで作ってきた動画を公開します、というお話です。

#StayHome の流れのなか、自分にできることはなんだろうと考えて、今回読書のお供にと「哲学登山」(哲学書を少人数で読み合うプログラム)の反転講義動画を一部公開することにいたしました。

内容は、自由をテーマに、ヘーゲル、ミル、アーレントと哲学書を巡っていく「自由登山」。
次に、現在進行中の探究をテーマに、古典的プログマティストの哲学書を巡っていく「探究登山」。

今回公開するのは自由登山の講義全てと、探究登山のイントロダクション、合わせて6本です。

なかにはKindleで買える本もあるので、本を読みながら聴くも良し、家事の合間に放送大学の要領で(?)流しっぱなしにするも良し、です。

一人ひとりの自由や、探究心を大事にする社会を作っていくための見えない地ならしのようなことを、ずっと哲学はしてきました。

自分の説明が要領を得ないところもあると思いますし、専門の方からすると怒られるところもあるかもしれませんが、哲学者たちの努力の一部でも、皆さんに伝われば幸いです。

※追記:難易度を設定しました。難しいものも読んで、わかったふりをするのでなく、「わからないことを楽しむ」ことをモットーにしていますが、やさしめのものが知りたいということもあるかと思い、追加しました。
時節柄おすすめなのはミルの『自由論』です。民主主義と少数派の問題など、アクチュアルな議論もたくさんありつつ、読みやすいです。
【自由登山】
イントロダクション
哲学書の読み方について
https://youtu.be/tQeK364BECc

ヘーゲル「精神現象学」序文①
https://youtu.be/8UGX08wa5Ac
難易度:★★★

ヘーゲル「精神現象学」序文②
https://youtu.be/OHWsGZpKDqQ
難易度:★★★

ミル「自由論」第1章・第2章
https://youtu.be/738T-V8qEbs
難易度:★

アーレント「革命について」第3章・第4章
https://youtu.be/MjAW3C0fIyo
難易度:★★

【探究登山】
イントロダクション
伊藤邦武「プラグマティズム入門」序章・第1章
https://youtu.be/7bbaq7uzLv4
難易度:★

ケアとしての哲学対話

※FBからの転載
先週、ABDと哲学対話を行った。様々な意見が飛び交う中、時折互いの立場で教育について感じる「膿」を出すような言葉も出てきた。制御しようかとも思ったが、教育という公の事業を考えるには、膿を出し切ること、それを聴いてもらうこと、敵がいると思っていた場所には敵がいなかったということ、違う立場で頑張っている人がいること、などを腑に落としていく過程が必要なのだと感じて、やめてしまった。それが良い判断だったかどうかは、まだ考えている。ここにその備忘録をかく。

哲学対話の根っこには「ケア」がある。問題解決ではなく、問題が解明されていくプロセス。解明とは、例えば”自分には敵がいる”、あるいは、”味方がどこにもいない”、という「認識自体」が問題を生み出していることに気づき、自分を心から配慮していくようなプロセス。認識の前提を問い、より良く生きる筋道をゼロから考え出していくことは、哲学の重要な機能だ。

自分の教育(学び、育ち)についての認識が、根っこで癒され解明されていないと、子どもと社会にそのツケがいき、回り回って自分にやってくる。それを「怒りの教育学」と呼ぶ。自分が体験した過去の傷を昇華できるような教育を理想化してしまう。その傷を、そこから出ている膿を、まずは出し切ることが必要だと感じている。

オープンダイアログのように、ゆるくしなやかに配慮された場所で膿を出し切り、前を向けるような機会がなければ、おそらく再び「教育の振り子」に揺り戻しが起きるだろう。過去の亡霊の雪辱を晴らすためだけに、未来が使われてしまう。現在この国で起きていることと同型である。トップダウンで下ろしてしまうと、傷が起きやすい。今必要なのはベストプラクティスの共有と横展開ではなく、膿を出し切った上でどこへ向かいたいかを腹で決めていくような、哲学的な対話の場なのではないか。

そんなことを考えている。

原理と単純化のワナ

※FBからの転載

ある事象のすべてをなんらかの原理(命題)から解明できると思うのは、ともすると還元主義的な振る舞いを助長するなぁ、と思う。そして認識に対する還元主義的な振る舞いは、認識についての知識の集権化を伴うので、その集権化の渦中にいる機関やひとが権威的になる、党派化する可能性がある。

それは実践的であれ理論的であれ哲学的であれおそらく変わらない。その方が分かりやすいし伝えやすいのだけど、その事象のなかの微細なものや他の事象との関連性、複雑さを見えなくもしてしまう。

ここを忘れると、そうした複雑さを見ないようにするために原理を表現する命題が使われることにもなってしまう。

先行研究や先行する実践を細かく辿る意義は、新規性の論証と知見の公共化プロセスを開示するということにもあるけど、そもそもの事象の複雑さ、事象を取り扱う人間と人間関係の複雑さ(派閥、主義、歴史など)を知り、その上でこの複雑さを複雑なままに調停する筋道を探ることにもある。

要はたいていの物事は単純じゃないから、単純化して伝えないように配慮するということだ。

それは教育畑の観点からいえば、ひとりひとりの児童生徒の置かれた多様な状況、その状況のなかで児童生徒が認識している文脈、いまここでの感情と信念、関心とその移ろいなどを配慮するのと同型だ。

逆にいえば、還元主義的な振る舞いは、これらをざっくり切り捨てて、自分の見ている世界のなかで、何らかの実践報告の意義を喧伝してしまうのと同型だ。

事象の複雑さを知ることは、こちらの配慮の行きとどかなさ、限界を自覚させてくれる。その限界に気付かなければ、その命題はあらゆるケースに使えるツールとして独占的になる。

多元性が一元性を孕み、一元性が多元性を孕むとは、たれが知ろう。

科学と実在性

明日から、ふたたび西條さんの質的研究WSに補助講師として参戦する。そのため、いまは三重のビジホでこれを書いている。その行きがけの中Twitterで、薬剤師の青島さんの薬学、疫学の形而上学的な考え方についての記事を読んで、考えさせられることがあった。というより、自分の考えていることと近似していることを考えているひとがいる、という実感をえて勝手に嬉しがっていた。

その薬剤効果の形而上学という記事には、現代形而上学の知識論の議論や科学哲学での科学的実在性についての議論やポパー、クーンの科学論、構造構成主義などがさまざま入り組んでいたが、自分はこのタイトルが秀逸だと感じた。そう、「効果」(effect)の形而上学なのだ。

このあたりの科学哲学の議論って、とっても面白いのである。たとえば岩田健太郎さんの著作を読んでいて感じる感覚と同型の感覚が、青島さんにもあるなと感じた。それは、池田清彦先生の生物学の議論にも感じるところのものである。それは、科学を遂行する上で外部実在の実在性の仮定を、自分の論立てのなかに自覚的に取り入れているところだ。

岩田さんも疫学の議論をする上で、(哲学的には必要なのかもしれないが)疫学的には対象の実在を疑う必要はない、とみなしている。この辺りの哲学的にはややこしいところを実践的な身体感覚からすぱっと断じるあたりが岩田さんらしくて個人的には好きなのだが、しかしなぜ実在を疑う必要はないかについての議論の深まりはそれ以降見られないように思う。

そんな中、青島さんは、この記事のなかで薬剤の効果を認識するためにはその生理学的、薬理的、疫学的な対象の実在を想定しないことには薬剤の「効果」を認識することができないのではないか、しかしそこで想定される「実在とは何か」を洞察しようとしている(と桐田は読んだ)のがとても興味深いところだと思う。

池田先生は『構造主義生物学』で、科学は「形而上学的プログラム」だと看破している。比較的近著の『生命の形式』において展開されたポパーの3世界論を用いての生物学的な議論も、理論と概念の世界、主観的認識の世界、外部実在の世界という存在論的に立場の異なる世界の実在性をまず仮定するという形而上学的前提を採用することで成立している。

その意味で青島さんの議論は、ぼくには、池田・ポパーの3世界論的な3層構造を、戸田山の科学的実在論やハッキングの現象論を通して再構成しているようにも見えたのだ。そしてこの3層構造は、自分自身も取り組もうと思っていた科学哲学の一大問題系だったので、いまこうしてビールを飲みながらその感想を書き連ねているというわけである(どういうわけだ)。

さて、ここで問題になるのは、科学にとって実在、効果とは何かという問題だが、ぼくはこの問題の本質は実在性を擁護するか批判するかということにあるのではないんじゃないかと感じている。

むしろ、実在性realityとは人間の関心に応じて現象を操作し加工し析出することで得られる「効果」effectであると考えてみたらどうだろう、と考えている。

たとえばハッキングの現象論では、科学的に人間が意図して作り出す「実験」において析出される「効果」(放電現象など)を「現象」と呼んでいる。ハッキング自身はこの効果=現象を創造する実験をもって、科学的事実としての効果の実在性を擁護する向きに議論しているように見受けられる。

人間が意図的に実験的に作り出す「効果」としての現象は、ハッキングも言う通り複雑な自然現象のなかの「規則性」のことである。青島さんのいう薬剤効果とはその意味で薬学的な現象=薬剤の効果=薬剤の規則性のことである。ここでの規則性は因果関係や相関関係のことといってよいだろう。薬剤効果は、薬学的現象の規則性についての妥当性判断、その存在定立なのである。

ハッキングは哲学的で思弁的な現象概念を乗り越えようと実験的で操作的な現象概念を打ち出しているように見えるけれど、実際はおそらく、両者は矛盾しない。と書いたところでバッテリーが切れかけている。この続きは後日。

タカシムラカミ

きょう、羅漢図展を見に行った。言わずとしれた、村上隆さんの展覧会。

実は一度、Twitterでお話ししたことがある。とある芸術集団とTwitter上で軽く議論が白熱していたときに、若かりし自分がその議論の整理を勝手にしたのだった。

その時の様子がTogetterに残っていたなぁと思って読み返してみると、Twitter上で、村上さんは無名の人々に(クセはあっても)誠実に返答している。

作品を見た後で改めて感じたが、純粋な人なのだなぁ、と思った。初期の頃の映像を見たが、所作も視線もとてもピュアだ。

等身大フィギュアを作る眼差しに嫌らしいところはなく、オタクにも世間にもタブーであるものを創っていながら、眼がすっと通っている。

村上さんの作品はどんなに歪んでも、根本的に可愛いのだ。いわゆるカワイイではなくて、子どもの落書きを見たときに感じるような素朴な愛らしさなのだ。深さがないし、重みもない、つまり衒いがない。

しかしいまは、重さも深さも衒学さも得たいのかもしれない。アートワールドの重さ、日本のこれからのアートシーンを支えるに耐えうるだけの、重さ。スーパーフラットも、要は重厚なヒエラルキーに対抗するための武器だったのだから。

その状況変化の有り様がdob君に現れている気がしている。子どもの素朴さのある初期から、スーパーフラットに至り、次第にグロテスクに変化していく。アートワールドと日本の戦後史、美術史の重責が、ずしっと常に亡霊のようにまとわりつくようになる。

浅田さんも話題にしていたけれど、もし、村上さんがアートワールドの言説から離れたところで何かを描くなら。つまり、ただのらくがきを描くなら。そのとき逆説的に、日本ならではの軽妙洒脱で禅的でしかもポップな図が、出て来るかもしれないと思う。

今回、村上さんは神通力のある羅漢になったけれど、これから20年くらいで、アートのバブル的な虚無を引き受けるのでなく、ニヒリズムをどっかと抱えていなしてしかも笑って肯定するような、かつての禅僧が描いたような可愛い絵が出てきたとき、村上さんはもっと自由になるのかもしれない、と思った。

新居にて

埼玉県の新座市と、東京都の清瀬市の間ぐらいのところに、引っ越してきました。

とてもステキなところで、この家でいろんなワークショップや、ブックトークをやりたいなと考えています。学びのパーティー。 “新居にて” の続きを読む