ネクストステージの罠

※FBからの転載
発達段階のように、何らかのプロセスをステージの変化として捉える、段階理論(stage theory)のメガネで、いろんな物事を切り分けるのが当たり前になってきてるのかなぁ、と思う。最近のティール組織などの流行はもとより、古いとこでいえば唯物史観や、前近代、近代、ポストモダン、ポストポストモダンみたいな時代の切り分け方も形式的には段階理論的だ。

この段階理論のよいとこは、自分(たち)や相手の立ち位置がわかりやすいことだ。だからこそ、自分や相手を「能力も認識も、生まれつき一生変わらない存在」と見るのでなく、ある段階にいるひとと見ることで、その成長や発達の仕掛けを構想していくことができるようになる。

しかしもちろん、あらゆる理論には限界があるように、良いところだけではない。それは最高のステージへと続くネクストステージなるものがあると盲目に信じてしまい、自分や相手も含め、ある発達の状態にあるひとを「低いステージにいるひと」と見なして差別的な態度に出てしまうことなどがある。

実際、ステージセオリーは部分的に修正されたり(多重波理論)、根本的に疑義を挟まれたりもしている(パパートなど)。ステージは階段を登るようなものと認識されているけど、本当にそうだろうか。むしろ、本質的にはいろんなステージがフラットに存在していて、ひとはいろんなステージで上演ができるようになっていくのではないか、などなど。

旗を降るためには、ネクストステージを描くことは重要だし、社会の課題を解決するということはまさにネクストステージへとみんなで階段を登れるようにすることだというのはよくわかるのだけれど、そのネクストステージを信じることの意義と危険性にも配慮していかないとなぁ、と思う新幹線のなかなのでした。これから伊豆で合宿&ワークショップです。(写真はこの前とった母校の桜です。綺麗!!)

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レビューは井戸端会議のように

アカデミックな文献等のレビューをどのようにしているか、自分の感覚の棚卸のために描いてみる。

表題が早速突飛で申し訳ないのだが、自分は文献のレビューをしているとどうも、頭の中が「井戸端会議をしているおばちゃん」になっていく。

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↑こんな感じ。

なんでかというと、井戸端会議での態度が、レビューの要である「あるテーマに対する人間関係の把握」を行う態度と似ているのだ。(実際はもっと厳密なんだけど、大まかなイメージとしては似ていると言っていいと思う)

たとえば「近所の病院の評判」に対して、地元育ちの佐藤さんは「あそこの先生はベテラン揃いだからいいのよねえ」と話していたが、最近越してきた田中さんは「でも私、この間若い人に当たったんですけど、ぶっきらぼうで、ヤブな感じでしたよ」と話したところ、佐藤さんが「ええ、本当?そんなことないと思うんだけど」云々と返したとする。

まず、このやりとりを聞いて「ベテランもいるならいい病院なのかな」「ヤブもいるならあそこの病院には行かないでおこうかな」と考えるのはレビュー以前の態度、「話を鵜呑みにする」状態。

研究で言えば、論文や著作の中に書かれたレビューを読んで、「ふむそうか、そうなってるのか」とそのまんま受け取ってしまうような状態。

次に、佐藤さんも田中さんもあの病院について違う話をしている、ならば他の人はどうだろう?と考えて、違う“井戸端”でお医者の奥さんの鈴木さんやら元看護師の藤原さんの話も聞いてみると、「へえ、いろんな意見があるもんだなあ」と思ったとする。

で、「近所のあの病院は近頃どうなの」と聞いてみると、「えっとね、佐藤さんはこうこう言ってたけれど、田中さんはこれこれと言ってて。鈴木さんによれば今かくかくで、藤原さんに聞いてみたら昔しかじか」というような要領を得ない話が帰ってきたとする。

研究で言えばこの状態は、単に人の話を羅列して、テーマについての意見を採取しているだけ。東大の中原先生の比喩で言えば「先行研究羅列マン」の状態だ。

「井戸端会議のおばちゃんたち」はもっと高度である。

井戸端会議のおばちゃんたちは、会議をしながら、「近所の病院の評判」について話している人々の「人間関係」(誰はどんな立場にいて、誰と意見が対立しているか、誰の影響関係にあるか、ひいては権力関係があるか)を、協働的にざっと相関図的にまとめていくのである。

「佐藤さんは昔からあそこに世話んなってるから、愛着湧いてんのよきっと」「院長さんとも仲良いしねえ」「えっそうなの?」「知らなかったわ〜」「そりゃ無下に言えないよねえ」

研究で言えば、ある研究者はどこどこの学派の影響を強く受けているとか、師弟関係にあるかとか、他の研究者とはどのような関係にあるかを把握していくと、その研究者の論文(主張)の背景となるコンテクストがわかってくるので、

その研究者がそのテーマについて「言えること」(考えていること)と「言えないこと」(考えていないこと)の違いがはっきりわかってくるのだ。

そうしておばちゃんたちは、井戸端会議の中でその相関図を協働的に整理していくのであるが、その整理の中でテーマについての「誤解の種」やら「疑惑の種」が、その人なりの「立場」から生じていそうなこと(「まあ田中さんはまだ越してきたばかりだからねえ」)や、

「まだ誰も立っていない立場」(この場合は病院の中の人の意見や様子など)があることなどに、だんだんとみんなで気がついて来る。

だから噂好きのおばちゃんは、井戸端会議の最後に「(病院の)中では何が起きてんだろうねえ〜」「ねえ〜」と今後の調査の「軸」となる“アンテナ”を立てることを忘れない。

だから偶然、病院の中の人と繋がれそうな人と会った時には欠かさず、“世間話”という名のインタビューを開始するのである。「ねえ、最近どうなの?」

とまあ、批判的なレビューに必須な態度の一つとしての「人間関係の把握」「軸の探索」について、「井戸端会議のおばちゃん」というメタファーを通して語ってきたけれど、これは井戸端会議がすなわちアカデミックなレビューと同じだということではもちろんない。

井戸端会議になくて批判的なレビューに必要なもの、それは「視点の開示」。テーマについての人間関係を把握する自分の視点も考慮のうちに入れておく必要がある。自分の調査の軸や幅が偏っているなら、それを自覚して記述して開示しておくこと。

しかし、そういう自分の視点について開示のあるレビュー論文を読むと、「いやね、私も全部は知らないんだけど、私が聞いた限りではね…」というおばちゃんの前口上を聞いているような気持ちになるのは、これは俺の思考がおばちゃん的だからなのだろうか。

続く?

 

未来をみる

※FBからの転載
高校時代、哲学にハマっていた時、同じくこっそり哲学にハマっていた友人がいた。「今日デカルトとか読んじゃってんだぜ」みたいな感じで、ちょっと背伸びし合う感じで。

そんな友人とは結構シリアスに人生の進路のこととか時勢のこととかも話し合えてとっても楽しかったのだけど、浪人時期に北朝鮮と自衛隊の話になった。友人は「自衛隊を武力として使えるようにして、相手に示した方がいい」と考えていた。

俺は、「そのあとはどうなると思ってる?」と聞き続けた。

3回くらい聞くと、「そんなのわかんねえよ!」となった。「それぐらいしかわからない段階で、武力で示すのがいいと考えるのは危険だと思う」と伝えると、国交断絶のような感じになって、それ以降、その友人とシリアスな会話はあんまりしなくなってしまった(若いw)。

未来をみることは、難しい。ただでさえ難しいのに、その未来には、今この時ですら何を考えているかわからない「他者」がいるのだから一層だ。この難しさを知らない状況で、未来は一つしかないと考えた瞬間から、雪崩のように人は動く。その動き自体が、未来を一つにして、人の動きを予測可能なものにし、同調圧力を生み、権威を生み出していくと、なかなか気づけない。金融の動きにしろ、政治の動きにしろ、教育の動きにしろ、教室の中の空気にしろ。

本来なら、未来をみる力は、過去の把握と現在の分析に紐づいて、予測不可能で不安の漂う未来を「一つ」にまとめ、安心してワクワクして人生を生きるためにある。世間で言われるvisionとは、本来的にはそのようなものだ*。その力は一人一人の中に、必ずある。つまり、異国の人の中にもあり、子どもの中にもある。

そこを信じ抜き実感するところから政治、経済、ひいては教育は始まる。

共に、自分と異なる出自の相手が野蛮人でもなく未開人でもなく、未来を見ている「人間」だという自明なことに気づくところから始まっていく近代的な営みであるからだ。

そんなことを、想う。

<註>

*例えばエリクソンは『玩具と理性』の中で、子どもの遊びから政治経済的なヴィジョンに到るまで共通している、人間が「視覚的なモデル」を構成して遊戯的な空間や政治的/経済的な空間の一貫性を理解しようとする「幻視性」(visionary)という能力に言及している。

…視覚(vision)のもつ二つの意味、つまりわれわれの前に今ここに存在するものを見る能力と、未来に本当になるかもしれぬもの(もしそれを信じることさえできれば)を予見する(幻視的visionaryな)力、この両者を結合している。(p.46)

人間はこの能力によってその後の全人生段階を通して「自分が予測可能な世界の中に安心して(at home)存在している」という感情を得ることができる。(p.50)

この幻視的な現実のモデル(例えばごっこ遊びやサッカーゲームの中での「いつもヒーローになる自分」、政治経済の中での「終身雇用制度の中の自分」)が維持され、事実的な現実と折り合いをつけながら互いの領分を守っている間はいいのだが、このモデルの信頼性が揺らぐとき、自己とその現実を理解することもまた困難になっていくと彼は論じている。この困難を乗り越えていくことが個々のライフステージの課題となっていくというわけだ。

 

原理と単純化のワナ

※FBからの転載

ある事象のすべてをなんらかの原理(命題)から解明できると思うのは、ともすると還元主義的な振る舞いを助長するなぁ、と思う。そして認識に対する還元主義的な振る舞いは、認識についての知識の集権化を伴うので、その集権化の渦中にいる機関やひとが権威的になる、党派化する可能性がある。

それは実践的であれ理論的であれ哲学的であれおそらく変わらない。その方が分かりやすいし伝えやすいのだけど、その事象のなかの微細なものや他の事象との関連性、複雑さを見えなくもしてしまう。

ここを忘れると、そうした複雑さを見ないようにするために原理を表現する命題が使われることにもなってしまう。

先行研究や先行する実践を細かく辿る意義は、新規性の論証と知見の公共化プロセスを開示するということにもあるけど、そもそもの事象の複雑さ、事象を取り扱う人間と人間関係の複雑さ(派閥、主義、歴史など)を知り、その上でこの複雑さを複雑なままに調停する筋道を探ることにもある。

要はたいていの物事は単純じゃないから、単純化して伝えないように配慮するということだ。

それは教育畑の観点からいえば、ひとりひとりの児童生徒の置かれた多様な状況、その状況のなかで児童生徒が認識している文脈、いまここでの感情と信念、関心とその移ろいなどを配慮するのと同型だ。

逆にいえば、還元主義的な振る舞いは、これらをざっくり切り捨てて、自分の見ている世界のなかで、何らかの実践報告の意義を喧伝してしまうのと同型だ。

事象の複雑さを知ることは、こちらの配慮の行きとどかなさ、限界を自覚させてくれる。その限界に気付かなければ、その命題はあらゆるケースに使えるツールとして独占的になる。

多元性が一元性を孕み、一元性が多元性を孕むとは、たれが知ろう。

幸福の3要因

積ん読になっていたショーペンハウアーの『幸福について』(『処世術箴言』)を読んでみた。解釈学を平らげたときに参照したくらいであまり読んでいなかったのだけど、すごく面白い。

彼によれば、「人のあり様」「人の有するもの」「人の印象の与え方」の3つに応じて人間的な幸福と不幸が規定される。原理的に言い換えたら、自分の個性、資本、表象(イメージ)の3つの要因に応じて幸福感が変わる。

この3つのうち、個性は時を超えて不変だけれど、資本と表象はその都度変わっていく。また、たとえ同じ量の資本を持ち、他人から同じようなイメージを抱かれていても、結局はそのひとの人柄(個性)次第で当人の幸福感はまったく変わってしまう。

細かい話を割愛すれば、彼は資本の増減やイメージの良し悪しにいちいち拘らずに、まず自分の「個性」を充実させ、それを活かす仕事に取り組み、資本とイメージを整え、退屈や困窮に振り回されない「自由な余暇」を過ごせるようになることが幸福に近づく道だとする。

けれど、ショーペンハウアーが面白いのは、この主張が自分の一番言いたいことではないと最初から断言しているところだ。この箴言集の最初で、「人間は幸福に生きるために生まれてきた」という考え方を「人間がよく陥る迷妄」だと切って捨てている(笑)。この最初に否定しておいてからの搦め手は、どこかツンデレ属性のようにも感じる。

とても現実的で世俗的なバランス感覚を大事にするとともに、厭世的に理性的な思想も尊んでいる。この矛盾した感じが、逆に生活感が滲み出ていて好きな著作だ。

 

創造的な思考について必要なことは、幼稚園で学ぶ

※以下は、以前のブログに書いていた記事の転載です。

ぼくはいま保育士科の学生さんに教えているのですが、幼稚園や保育園ならではの専門性として、遊びのなかの学びに気づくことができるか、という視点が挙げられると思います。

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世界と知識

このあいだのインタビューのなかで、話してみて初めて気づいた話がいくつもあった(同時に、話しそびれたものもいくつもあった)。

自分のなかに潜んでいたアイデアだった、というよりは、おそらく論理構造として成立する条件がそのとき整ったのだろう。

そのなかのひとつに、自由になるための「相互承認」、そしてその相互承認を具体化するための知識との関係性についてのアイデアがあった。ながらく知識論を睥睨して回っていたことも奏功したのかもしれない。

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世間と余白

哲学するとはどういうことか、について考えを巡らせている。科学哲学や実存哲学、社会哲学に環境哲学、分析哲学などなど、哲学も多種多様な分野をもつものではあるけれど、その本質は何なんだろう?と。

そんなことをうろうろと考えていた時、以下のような記事をfacebookやtwitterを通じて拝読させていただいた。帰国子女の女子高生の林さんと、東京大学の教授である梶谷さんの投稿。ともに、「日本には哲学や社会情勢について話せる場所がな」く、さらにいえば「日本には何でも話せる場所がない」という問題提起。

結論から言えば、これらの問題が直面していることは、「世間的な会話(特定の役割に応じての会話)ではなく、一人の人間として、互いの関心を交換し合うような対話をする雰囲気がない」ということなのだろうと思った。

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取材

が、いましがた終わった。某誌に無事に掲載されるかはおそらく今後の自分の頑張り次第なのだけれど、基本的にこれまでインタビューする側だったのでとても新鮮であった。と同時に、自分の話し方や聞き方について改めて考えさせられることが多かった。改善あるのみ。

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問いと、必然性

子どものための哲学について、国内外の実践事例を調べながら、うーん、と考えてしまう。

既成のワークや実践に対する子どもたちの感想を読むと、全員ではないが一定程度「答えのない問いを強いられることへの反感」を持たれている。その感情は他ならぬ自分がかつて感じたことでもあったから、改めてきちんと考えておかなければと思う。

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