じぶんを知ろうとすること。

(2017/10/07 追記:現在は他の業務が立て込んできたため、下記の「旅」は一時休載させていただいております、悪しからず。)

最近、哲学の活動をちょこちょこできるようになってきて、嬉しい。ひとつは、仕事旅行社さんで哲学の「旅」を開催することができるようになった。

「哲学を用いて、自己の思考軸を探究する」

このワークショップは、就職や転職などを機にじぶんの思考の「軸」を作るに際して、ハイデッガーの解釈学的な現象学が活かせそうだ、という発想がもとになっている。

このアイデアの発端になったのは、ハイデガーに関するとある紀要論文、「初期ハイデガーの解釈学-自己理解とテクスト解釈の交差」だった。この論文では、ハイデガーの解釈学をどのように「活かす」かについて、とても印象的に語られている。

解釈学的解体がアリストテレス解釈をおこなう理由は、事実的な生を問うときに、たとえば「人間」や「理性」などの伝統的な哲学の概念が用いられるからであり、それらの概念は古代ギリシアに根を持つからである。解釈学的考察に際して、ハイデガーははじめから哲学の伝統的な基礎概念に狙いをさだめている。しかしわれわれ自身はどうであろうか。われわれは自己自身を「理性的動物」 や「主観性」として捉えているのだろうか。

ハイデッガーは西洋が大事にしてきた「人間性」(humanity)の「根源」を理解するために、西洋哲学で「当たり前」に使われている「人間」や「理性」といった言葉の「根」であるギリシア哲学の伝統的で基本的な概念(人間は理性的な動物だとしたアリストテレスの概念など)にさかのぼった。

いわば、いま当たり前に受け取られている「前提」を崩し(=解体)、その本質的な洞察を明らかにするために、古典と格闘していた。つまり、クラシックな概念の解釈を通して、ハイデガーは自分自身もその系譜につらなる西洋哲学、ひいては西洋の人間性の「根」を理解しようとしていた。

でも、現代日本に生きるふつうのひとは西洋哲学の概念で「自分」をふくめ、「人間」を理解してはいないのじゃないか。ふつうのひとが哲学するには、まずギリシアの古代から遡るよりも、いまじぶんを取り巻いている環境や、じぶんのキャリアを振り返ることから「自己理解」を始めるのがよいのではないか?

確かに。けれど、「じゃあハイデガーなんて要らないじゃん」、ということにもならない。なぜかといえば、ハイデガーが、どの時代にも共通しうる、自己理解の「フレームワーク」を提供してくれているからだ。詳しく話すと長くなるので割愛するが、ハイデガーは「自分」を解釈する「前提」となるテクスト(=今日の被解釈性)に立ち返る、という形式を「発明」したのだ。ゆえに

問題となるのは、今日の被解釈性をどのような歴史の流れにおいて捉えるのかということ、そしてその際参照されるべきテクストは何かということである。… ハイデガー解釈学の事実性への問いをわれわれの状況において引き受けるとい うことは、日常的で卑近な言説や学校教育などの制度、現代の政治的・経済的な状況へと眼差しを向けることを必要とするのである。

この辺りのことを、参加者の関心に応じて、ワークショップでは楽に理解できるよう整理して提供する予定である(なお、政治経済の制度や状況に眼差しは向けないと思う、たぶん)。

さて、こんな風に哲学を「キャリア支援の役に立たせよう」というような発想は、人文系学部の学問は「役に立たないからこそ意味がある」という言説とはまっこうからぶつかるものかもしれない。けれど、ぼくはこの対立は本来的には対立しないと思っている。

なぜなら、人文的な知識は「かつて役に立っていたものと、いま役立っているものの系譜が保存された宝庫、あるいはそれらの居所が記されたデータベース」のようなもので、これから何が役に立つかぼくたちは明確に予想することはできない以上、ぼくたちが取りうる戦略は「かつて役に立っていたものの宝庫を維持管理し、使えそうなときに使えるよう身体に慣らしておく」他ないからだ。

つまり、文化的な知識の本質を抜き出しておいて、現在に活かせる部分は活かし、活かせそうにない部分は維持管理しておく、という態度が人文的な態度なんじゃないかなと思うのだ。

その意味で、大学時代の先輩を相手に哲学のおしゃべりをするというポッドキャストは、なかなかにいい機会なのかも、と思ったりしている。タイトルは、「哲学するおっさん」。水曜どうでしょうのような雰囲気でやりたいなーと思っている。