【書評】西條剛央『チームの力』

※以下は、以前のブログで記載していたチームの力の書評です。一応転載しておきます。

西條は本書の序論で、いま大流行の漫画『進撃の巨人』を喩えに、組織とチームの本質について論じている。序論に『進撃の巨人』を例えにした組織論という組み合わせに、驚くひとも多いだろう。しかしここには、近代政治哲学の祖といわれる哲学者ホッブズの主著、『リヴァイアサン』とのある共通性が見出される。

 

『リヴァイアサン』の口絵には、王冠を戴いたひとりの「巨人」の巨大な身体が、「無数の小さな人々」によって構成されている様が描かれている。この挿絵の意図は、国家とはさまざまな人間が織り込まれている人工的な巨人なのだということを示すことにある。なぜかといえば、近代以前において国家は「神」によって創られたとされていたため、「神」によって国家の権力の正当性が与えられていたからだ。この王権神授の考え方をホッブズは、国家=人工人間とすることで打ち崩しているのである。

「人工人間にあっては、『主権』が人工の『魂』であり、それが全身に生命と運動を与える。『施政官』とその他の司法行政上の『役人たち』は人工の『関節』である。また『賞罰』(…)は『神経』であり、それは自然的肉体における神経と同じ働きをする。また個々の成員が所有する『富』と『財宝』は『体力』であり、『人民の安全』が人工人間の仕事である。さらに人工人間にとって知る必要があるあらゆる事柄を提示してくれる『顧間官たち』は『記憶』であり、『公平』と『法律』は、人工の『理性』と『意思』、『和合』は『健康』、『暴動』は『病い』、『内乱』は『死』である。」(『世界の名著23 ホッブズ』序説 53頁)

このさまざまな人間と職業、その活動によって織り込まれた巨大な「人工人間」を、ホッブズは「リヴァイアサン(怪物)」と呼んだ。こうした背景を踏まえると、以下のホッブズの奇妙な問いが、いわゆる国家論になっていることも、了解できるだろう。

「『どのようにして』またどのような『契約』によって人工人間はつくられるか。『主権者』の『権利』およびその正当な『権力』あるいは『権限』は何か。」(前掲書、 54頁)

この問いにある「人工人間」を「組織」や「会社」に、主権者を「リーダー」や「代表」と読み替えるなら、現代の組織論あるいはリーダーシップ論としても活きてくる、理論的だがとても実際的な問いになっていることがわかる。

そして、このホッブズに発する政治哲学の問い(おそらくは、竹田『人間的自由の条件』『人間の未来』や苫野『どのような教育がよい教育か』などへのアンサーなのかもしれないが)を西條なりに引き受けているのが、実は本書だと言っても過言ではないと、私は考えている。…本当か?と疑う声が聞こえてきそうだが、さしあたり歴史の文脈や学術の文脈を通して、本書の解題を行なっていきたいと思う。

さて、ホッブズは国家を巨大な人工人間、怪物として描き出していたが、彼はこの怪物を遠ざけようとしたのではない。むしろこの怪物的な人工人間を、人間は生きるために求めざるを得ないと考えたのである。それは、人間はひとりではなにもできないという能力の不足だけが理由ではない。ひどく現実的に、自分たちの人工人間を打ち立てなければ、人間たちは相互に殺しあってしまうからだという理由による。

たとえばホッブズは戦争が起こる条件を、競争・相互不信・自負の3条件に見出している(詳細は割愛)。人間は等しく、何かを求める心とそれを実現しようとする何らかの力を持っている。そのため、自分が求めるものは等しく実現してほしいと願うようになる。

しかし誰かと同じものを欲するときには、実際には相手より抜きん出なければならなくなる。その結果、競争が起き、相手も自分より強い力を得るために何かを用意しているだろうという相互不信も生じる。

この相互不信が、相手より自分の方が強いなら、相手を打ち負かしてしまえばよいという結論を導いてしまう。たとえ実際には不利であったとしても、名声を求めたがために判断を誤る人間の多いことは歴史が証している。

こうして、競争・相互不信・自負の条件が揃うと、人間は常に戦争状態を作り出し、互いに殺しあうほかはなくなる。

これが、「万人の万人による闘争」である。

では、この殺し合いの連鎖を止めるためにはどうすればよいのか。競争・相互不信・自負の3つの条件が成立しないよう、互いの合意に基づいて、(他人のものを含む)あらゆるものを自分のものにする「力」を自ら放棄する必要がある。

しかし、そんな合意形成はひとりの力ではどうにもできない。そこで人間たちは、この殺し合いの歴史を乗り越えるために、自分たちの意思によって自分たちを守ることができる「大きな力」を造りあげる。

つまり、ひとびとの安全を保障し、社会福祉を設立するためには、人工的に強い権力を与えた「主権者」、すなわち「巨人」を生み出すほかはないという結論に至るのである。

ホッブズはいう。

「この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意志を多数決によって一つの意志に結集できるよう、一個人あるいは合議体に、かれらの持つあらゆる力と強さとを譲り渡してしまうことである。これは同意もしくは和合以上のものであり、それぞれの人間がたがいに契約を結ぶことによって、すべての人間が一個の同じ人格に真に結合されることである。」(前掲書、「第17章 コモンウェルスの理由、生成、定義について」、196頁)

「合意に基づき、多数の人々が自分の力を一個の人格に譲渡する」。これがホッブズが見出した近代国家のイメージだった。ホッブズは「国家」が神によって創られたものではなく、人間による人間のための『巨人』であるという本質を射抜いたのだ。 しかし、その「巨人の作り方」にも多くの問題があったことは、近代史を知っているひとならば、同意することだろう。

ここで西條の著作に戻ってみよう。西條は『進撃の巨人』に共感したエピソードとして、東日本大震災での組織の不合理に直面したことをあげている。人間の命を奪っていく巨大な組織の不合理を乗り越えようとする「ふんばろうプロジェクト」と、人間の命を奪っていく巨人の残酷さに挑んでいく「調査兵団」。このアナロジーを成立させている関心はおそらく、「巨大な組織」はもはや、私たちの生を近代以前とは別の仕方で脅かすものになっているという気づきに基づいていると考えられる。

人々の安全を人災や自然災害から守ろうとし、福祉を整えるために生まれた巨大な「人工人間」は、もはやその機能を果たしておらず、私たちの生をただただ捕食し続ける「巨人」に成り果てているのではないか。そうした巨人による災害ーー西條はこれを「組織災」と呼んでいるーーを、どうすれば私たちは防ぐことができるのか。

この問いは、そのまま先に挙げたホッブズの問いと重なる問いである。どのように人工人間を作ればよいのだろうか?その主権者の権力や権限は、どのようにすれば正当なものと認め得るのだろうか?

こうした問いに対して、多くの知者が「巨人を造らなければいい」という短絡に陥ることがある。しかしすでに70億に届くかどうかというほど拡大した「人類」と、日本に限っても1億数千万の「市民」を相手に、「ひとり」で立ち向かうことはどう考えても無謀である。といって、既存の組織に頼りすぎることもできない。

こうした現状に対する西條の答えはシンプルである。その都度の状況に応じて、人間の幸福追求を目的に、自分たちの「チーム」を造ることだ。

「これは既存の組織をすべて否定するものではない。『進撃の巨人』において、巨人から人々の命と生活を守る壁もまた巨人であったように、我々の現在の生活を守っているのも また組織なのである。しかし、壁に穴があいた危機的状況において、既存の組織に限界があるのもまた確かなのだ。」(『チームの力』「序章 『進撃の巨人』の”巨人”とは何か」21頁)

「エレンは何のために巨人になったのか? それは一人の人間の力ではできないことがあるからだ。興味深いのは、エレンは彼の意志(目的)の持ち方に応じて、その都度異なる 機能を持つ巨人になるという点だ。一匹残らず巨人を駆逐するという意志で巨人化したと きは周囲にいる巨人を全滅させた。砲弾からミカサとアルミンを守ろうとしたときには一定時間防御できるだけの半身からなる未完成の巨人となった。 本書で論じるのは、あなたの目的に応じた”チーム”の作り方、つまり意志に応じて機能する”巨人”の作り方である。」(前掲書、22頁)

この状況と目的に応じて機能する”巨人”は、これまで私がホッブズを援用して論じてきたような巨人とは異なる、別の仕方で生まれる「巨人」であると理解すべきだろう。それが「チーム」だ。西條自身、「組織Organization」と「チームteam」の違いについて、執筆後に思いを巡らしていたことを「あとがき」にて述懐している。そしてこう続ける。

「怪物と化した組織では、人はひとりの人間である前に”組織人”という名の僕(しもべ)となり、本質は失われ、誰がどう考えてもおかしい理不尽がまかり通ることになるのだ。私が本書で”チーム”と呼んでいたものは、腐敗した組織のアンチテーゼであり、個々人の思いと全体の営みが同じ方向を向いている、フラットでしなやかな機能体を指していたのである。」(前掲書、「あとがき」210頁)

「今の経営学では、「組織が生き延びることはよいことである」ということがその是非を 論じられることもなく、暗黙裡に前提となっているようだ。実際、古今東西、競争戦略か ら協調戦略まで様々な「戦略」が提案されているが、それらをひもとくとどれも組織が生き延びるためのものになっている。しかしながら、延命すればするほどよいというのは本当なのだろうか」(前掲書、同頁)

私なりに言い換えるなら、チームはそのつどの状況と目的に応じて造られる組織の別名だ。そのため、状況と目的が変わるなら、そのチームの存続も改めて問い直される。よって、本質的に時限的な組織となる。つまり組織の維持発展、成長を目的とはしなくなる。

ならば新たな「巨人」を造る目的とはいったい何か?それは、「人を幸せにする」ことであると西條は言う。この一見当たり前な主張の勘所は、「何のためにそのチームを造るのか」というラジカルな問いへの「応え」であるところにある。

組織の維持発展を目的にするということは、組織が存続するためならどんなことをしてもよいというパワーゲームを導きかねない。だからこそ組織の目的を糾すラジカルな問いが必要になる。組織の維持も発展も、仕事の収益も成果も、すべてが人間の自由な幸福追求の手段であると理解することが肝要なのである。

この本質を踏まえれば、組織内外の人間を幸せにしない組織は、組織災を生み出しつづける「巨人」であると批判できるようにもなる。これは、組織とその主権者の権力の正当性を評価する「規準」を得たこととほぼ同義であろう。

なぜなら、組織内外の人間の幸福追求を促進しているか阻害しているかで、その組織の「よさ」が評定できるということになるからだ。

まとめると、西條にとってチームとは、その都度の状況に応じつつ、人間の幸福追求を目的に組織され、その目的が達成されたならば解消される、いわば「人間がそのつど変身して生まれる巨人」であるといえよう。その意味でも、その巨人は匿名の怪物ではなく、固有名を持った人間が自分の意思で変身する「巨人」であり続けることが、最も重要になるといえるだろう。

最後に。これは私の深読み、もとい余談だが、「ある怪物が現れたとき、ひとりまたは複数の人間が巨人に変身し、みごと怪物を倒し平和が達成されると、みな変身を解いてまたもとの人間に戻る」という構造の物語は、日本の特撮・漫画・アニメに星の数ほどある。ウルトラマン、ガンダム、エヴァンゲリオン、そして進撃の巨人などなどだ。さて、これらの変身物語に通底している教訓は、以下のものだ。

巨人化した人間が「自分ももとは人間であったこと」を忘れたとき、その人間はかならず暴走するということ。そして、敵である怪物も「実は人間であること」を巨人が忘れたとき、巨人は敵の怪物を残酷に殺し続けるだけの「怪物」になるということだ。

巨人化した人間は、ときにその人間性を喪失する。ひどく逆説的だが、それは「ひとりの人間ではできなかったことが、巨人になるとできてしまう」ためだ。

フッサールやメルロー=ポンティ、マルクスが洞察していたように、人間は自分の身体とその生産物に応じて、自身の「力」を理解する。ひとりではできないことが巨人になるとできたとき、自分の力の基準が巨人の力に移行したとき、ひとはひとりの人間であったことを忘れてしまう。それは『進撃の巨人』のエレンの言動の変化を見れば、容易にわかることだ。

この忘却を防ぐには、しかしどうすればよいのだろう?

多くの物語が伝えている教訓に従うならば、いくら巨人の力を得ても自分は常にひとりの人間であること、敵の怪物もまた今なお人間であり続けていることを、思い出させてくれる人をもつことだ。怪物を「怪物」として認識してしまったときに、その怪物のなかで生きているひとりひとりの人間のことを想うことができる人。巨人の力を自分ひとりの力と混同しない人…。

自分は誰で、何のために巨人になったのか。巨人化したときに踏み潰してしまった人間はいなかったか。巨人の手足として動いている人々を、巨人(自分)の身体の器官であると同時に、かけがけのない彼ら自身の身体をもつ存在として認識できるかどうかが、巨人に変身する人間(リーダー)にこそ問われているといえよう。

本書に発想を得て生まれる新たな時代の「巨人」たちが、「怪物」を含めた個々の人間とすべての人類の自由に資することを、願ってやまない。