先生の“愛らしさ”

学校を巡り始めて以来面白い先生たちと出会い、先日もその機会を得たのだが、そんな先生たちと話をしていて改めて思った。

先生って“愛らしい”!笑

そんな感情を抱いているとは思っていなかったので、「なんじゃそりゃあ」と自分自身ちょっとびっくりしたのだけれど、やっぱりどう考えても愛らしいのである。無論、愛らしいと言っても、見た目の可愛さとかの話ではない。

なんでそんな感情を抱いているんだろうかと、ちょっと振り返ってみた。

まず、至極バラエティに富んでいるキャラクターひとつひとつが“愛らしい”。

先生はなぜか、付き合ってみるとみんなキャラが「濃い」。その濃さは、外部から見ると並々ならぬほどのものがある。

対して、いわゆる社会人の人と出会うと、職種ごとに結構似通った気質や言葉を使うようになっていて、異業種で出会っても世間話で出るのは主に出世や景気、業種内のあるある話、外部とのコネクション、ネットワークの話に終始することが多いように思う。

けれど、先生たちは教科担任にせよ学級担任にせよ主任にせよ、結構自分の「こだわり」があって、そこについて極めて行こうとする職人気質なところがある(と自分が出会って来た先生を振り返って思う)。だからか、話していると「その道の職人さん」と話している気になる。つまり、一人一人のこだわりの世界観を見せてくれる人たちなのである。

さらに先生は、先生というあり方を選び、先生であることに悩み、先生であることとは何かを考え、先生でい続けるために何が必要かを探り続ける。ドラマティックかつリアルな発達プロセスが、一人一人の中にある。

そのリアルなドラマが、普段の会話の仕草の中、振る舞いの中に垣間見えるのが、「先生」という人たちの愛らしいところだなあと思う。

次に、社会の「ふつう」にいい意味でとらわれていない感覚が“愛らしい”。

社会の政治・経済の営みの中に「学校」が存在しているのは「当たり前」だし、その営みが学校にどのように影響を与えているかがしばしば不透明になりやすいために、教育の様々な格差問題が発生していることも確かだ。

けれど、それでもその社会の中で、社会とは少々異なる独自の論理で生きようとしている生態系だからこそできる、いろんなことがあると思う。

例えば、政治の原理原則を自分なりに問い返す視点を「ふつうに」広言できたり、学び合えたり、より納得できる原理原則はないかと考え合い、そのアイデアの不備を指摘しあえる場所を創り出すなんて、社会の中じゃなかなか「普通」にできないことだ。

政治の季節真っ只中の昨今、そうした社会への問い返しが「普通」にできないという「異常さ」のツケがいろんなところで回り回って出て来ていると思うけれど、学校に生きる学び手たちは、社会のリアルを目の当たりにしながら、その「異常さ」に気づいていける。

その異常さを異常だと、認められる場所。そんな場所を創り出そうと、懸命に学校で生きる先生たちは、社会の当たり前にとらわれない発想ができる人たちだと思う(もちろん、学校もまた「一つの社会」であり、そのメリット・デメリットもあるのだが、本記事の趣旨とずれるためここでは割愛する)。

学校は、穏健的な社会改造のための装置でもある。そのことに自覚的な先生は、愛らしいだけでなく”格好いい”とも思う。でもその格好よさは、いわゆる「リーダー」のような、先頭切って群衆の前に立つような格好よさではないのだ。

主人公は学習者であることを知っていて、その主人公が歩む険しい山脈をともに歩み支援していく、シェルパのような人を想像してほしい。

嵐の時に指針を渡し、吹雪の中でキャンプをともにし、その中で苦いコーヒーをともに飲む。そしてシェルパは、主人公が登頂する道のりをともに歩みながらサポートし、主人公が登頂できたにしろできなかったにしろ、その感情に共感するのである。

その格好よさって、とっても愛らしくないだろうか?

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他の先生の「ふだんの教室」へ、現役の先生が行くことの意味

ここで書いた記事は、facebookやTwitter上にも挙げているのだが、そこで信頼している先生や教育関係者の方にコメントをいただけたのが嬉しかった〜。こういう記事を書くとき、一人ひとりの先生の、具体的な授業の在りようを思い浮かべながら書いているから。

さて表題の件。コメントのなかに、(他の学校の)先生の授業を参観しに行きたいけれどなかなか制度的に難しくて(泣)といった趣旨のコメントがあったのだが、これには個人的に激しく肯いた。

「よそ行き」の授業や研修を見ても、台本通りに進むバラエティ番組を見るのと同じで、どこか白けるし、学びは少ない。今まさに自分の現場を持つ教師同士で、相手の教室(授業)の中に自分の身体を置くからこそ得られる学びの深さが、絶対にあるのだ。

※例えば、あすこまさんのKAIさんの教室訪問記は、特にその例証となる良記事。ぜひご一読を。

この「深み」はかなり感覚的な部分なので、端的に言おうとすると少々ポエム的な表現になってしまうのだけれど、自分とは違う身体によって実践されている授業を見ると、身体がむずむずと動き出し、オートマティックに授業の流れを予測し出すのである。

つまり、他の先生による授業を目の当たりにしていると、“自分だったらこうするだろうな”と自分の身体がオートマティックに授業の流れを予測し、動き出そうとするのだが、その予測とはズレる他者の身体の動かし方をみて、自分の教え方(教える身体のモード)について、リフレクション(省察)がゆっくりと、カラカラと動き出すのである。

「あっ、そこで問いかけないんだ。自分なら話しかけちゃうなあ」

「ああ、時間と時間の間がすごい緩やかだ…。自分だったらもうちょい、きちっとさせちゃうかも」

「…でも、なんで自分は“もうちょい”きちっとさせないと気持ち悪いんだろう?」

感覚的にいうと、自分とは違う価値観を持つ他者の身体の動かし方を見ると、自分は“そっちに行けないな”、“そっちには体を動かせないな”という、「見えない壁に直面している感覚」が訪れるはずなのだ。そしてその訪れは、自分が無自覚に培ってきた、「授業を見る身体」に気づく学びのチャンスだし、自分の「授業を創る身体」に気づくチャンスでもあるのだ。

その機会こそは、自分(の身体)が培ってきた授業の「当たり前」や「思い込み」に、他者の身体を通して気づくことのできる機会であり、その気づきを通じて、自分が授業を見たり創ったりするときに着目しがちなこと/見逃してしまいがちなことを、メタに振り返ることができる(=自分の授業を見る/創る身体に気づく)得難い機会なのだ。

ちょっと学問的な方向に話を降ると、「身体」とは、ある状況の中で常に、実践的な目標をそのつどめがけて動いて行く存在なのである(メルロー=ポンティ)。

その意味で「身体」は、はじめは未体験の状況だったとしても、繰り返し同じ状況下で適切な目標を選び出すことに慣れてくると、オートマティックに目標を選出し実現して行くことのできる「賢さ」を持っている。

例えば、サッカーのルールもプレイの仕方もわからなかった子どもが、他の子の身体の動かし方を見て、繰り返しゲームという特殊な状況の中を生きることによって、サッカーのプレイの仕方をなかば“自動的に”習得することができていくように。

 

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↑身体は面白い。目線、身体の軸、重心、様々な“自動的な”計算の上に、実践は成立する。

そんな賢さもある一方、オートマティックに動けるようになった自分の身体の「クセ」は、ふだんあまりにも当たり前に、目標を「目標」とも思わずに動いて行くから--PCの文章を書いている時や読んでいる時、いちいち自分の身体がどう動いているか、目は何を目標にしてどう動いているか、手は何を目標にしてどう動いているかなんて、考えないでしょう--なかなか自覚できない。

授業は他ならぬ自分の何十年生きてきたオリジナルな身体を用いる営みだからこそ、この身体の培ってきた「賢さ」を利用しない手はない(というより、自分の身体をリソースにして実践して行く他はない)。しかしながら、自分の身体を利用するには、自分の身体がどんな状況でどんな目標を選び出すクセを持っているか、自覚する必要があるのである。

そして、身体の自覚のためのとっておきの機会こそ、「日々授業を作り続けている状態の身体を持つ教師」が、「同じく日々授業を作り続けている状態の身体を持つ、他の教師の授業」と出会い、互いの身体の培ってきたクセの違いを自覚できる場、つまり「普段の授業の参観」なのである。

常々思っていたことを書き始めて見ると、意外にこれは大変な議論になりそうだ。このことについて語り始めると多分論文3本ぐらい必要になるな。。

 

 

 

授業を見る前に、いい学校へ行こう

日本各地の面白く建設的な研究会を実践している学校を指導教授と見に行った体験が、今になると得難い財産だったなあと感じる。(当時はしぶしぶだったのだが笑)

常々言われていたことだが、授業を見る眼を養うためには、まずは何よりも「“いい学校”と言われる学校を見にいく」ことが大事だと思う。その他にも色々あるけれど、まずは。

いい学校を見に行く体験が、なぜ必要か?

自分なりの言葉で一言で言えば、「学校教育の可能性が実現されている現場を直に体験することで、自分の被教育経験から飛躍して、自分の学校観・教育観を拡げる」ために必要なのだ。

全入時代になったゆえか、教育学や教師を志す人の多くが自分の「被教育経験」に基づいて、「学校ってこんなところだよね」「学校ってこうあるべきですよね」「学校ってこんなもんでしょ」といった、自分なりの「学校観」を培っていることが多い(いわゆる「社会化」だ)。

Classroom2学校の教室と言えば↑、のように。

教育界隈で仕事をするとき、仕事のしやすさは結構、この学校観がしなやかであるかどうかってすごく大事だと思っている。

日本にも世界にも本当にいろんな独自のカリキュラムを構想している学校があるし、ひとつひとつの学校の中には(現れ方やステージは異なれど)いろんな「挑戦者たち」がいるのだが、

以下のような「ステレオタイプな学校観」を押し付けがちな人は、そのステレオタイプな学校観が自分の過去の被教育経験に由来していることにしばしば無自覚なのである。

持論「ステレオタイプな学校観」
(新旧の軸でしか学校を見ていない、授業形態が一つしかないと思っている、など)
・“今”の学校って“全部一斉授業”だからダメなんだよねー。個性を育てられない。
・これからの時代、もう学校なんて“旧い”よ、もっと変わっていかなきゃ!
・海外の“新しい”教育を学校もどんどん取り入れればいいのに…。

言うたら、自分の恋愛経験から「恋愛って結局こんなもんよね」と、自分の体験を一般化して恋愛の可能性を見限って語っている、いわゆる“痛い人”になっていることに自分で気づけていないのである。(自分もそうならないように気をつけよう…!)

戦前から続く伝統校や、知る人ぞ知る地域のユニークな学校に行くと、「学校」ってこんなにユニークで興味深いカリキュラムが、こんなにも子どもにも社会にも開かれた形で実践可能なのか…!と目から鱗がボロボロと出るし、

そんな学校で挑戦を続けている「挑戦者たち」--児童生徒たちもこれまでに体験したことのない授業を創ろうとしているし、言わずもがな教師も深みのある授業を創ろうとしている--による「いい授業」、授業の可能性そのものに挑戦している授業を見ると、身震いがする。

「すごい、こんな授業ができるんだ!」「なるほど、ここでこの学びが起きるのか…!」そんな現場が目の前に繰り広げられるのであるから、それが公開/校内研究会であれ普段の授業であれ(なるべくなら普段の授業の方が本当に味わい深いのでオススメしたいが)、

そこで起きている現象を細かく観察し解釈し分析し、本時の授業の本質的・中核的な事態を直観して行くことで、自分の授業観・教育観・学習(者)観が変容して行くし、なにより、自分の被教育経験から飛躍して、「学校とはどのような場であるか」という自分自身の学校観が鍛え上げられて行くのが実感できるのだ。

しかもそういう“いい学校”の研究授業や授業の検討会は、学習者の目線で学びのプロセスやその地図をマッピングしつつ、授業の中での学習者相互の関係性の深まりや関係性の深まりに基づく学びの深まりなどを把握して行くことに全力を傾けて行くのが当たり前である。

そこで暗黙に共有されている態度をあえて言葉にするなら、以下のようになるだろう。

授業者がひとつの授業の中で起きている現象の全てを知ることは、そもそも不可能だ。でもだからこそ、観察者たちが授業内で起きていた現象を可能なかぎり持ち寄って、授業者や観察者たちが協働的に学習者の目線と教育者の目線、そして社会の視座から授業内の現象を意味付け価値づけることで、明日の授業への戦略・戦術構想へと繋げて行くのだ。

過去に有名附属校の公開研究会に行ったとき、意外に発表者の授業観・教育観を批判して、自分の授業観の宣伝をするのに終始する不毛な研究会が多くて驚いたが、本来的には上記の態度で臨むのが良いんじゃないかなあと個人的には思っている。

授業をよく見る目を、身体を培いたいと思う人は、まずはいい学校のいい授業、つまり素敵な先生と素敵な子どもたちの姿を見に行ってみることをオススメしたい。

きっと、自分の学校観がガラガラと崩れて、憧れて信望して、あんなのあそこでしかできないと諦めると言う一連の体験を経て、その末に「いや、エッセンスだけなら自分のところでもできるんじゃないか」と模索するところから、自分オリジナルの授業観・学校観が見えてくるはずだ。

きっと授業を見る身体が、変わってくる。

と言うことで、授業をよく見たい人は、ぜひ“いい学校”に行きましょう。

創造的な思考について必要なことは、幼稚園で学ぶ

※以下は、以前のブログに書いていた記事の転載です。

ぼくはいま保育士科の学生さんに教えているのですが、幼稚園や保育園ならではの専門性として、遊びのなかの学びに気づくことができるか、という視点が挙げられると思います。

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世界と知識

このあいだのインタビューのなかで、話してみて初めて気づいた話がいくつもあった(同時に、話しそびれたものもいくつもあった)。

自分のなかに潜んでいたアイデアだった、というよりは、おそらく論理構造として成立する条件がそのとき整ったのだろう。

そのなかのひとつに、自由になるための「相互承認」、そしてその相互承認を具体化するための知識との関係性についてのアイデアがあった。ながらく知識論を睥睨して回っていたことも奏功したのかもしれない。

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世間と余白

哲学するとはどういうことか、について考えを巡らせている。科学哲学や実存哲学、社会哲学に環境哲学、分析哲学などなど、哲学も多種多様な分野をもつものではあるけれど、その本質は何なんだろう?と。

そんなことをうろうろと考えていた時、以下のような記事をfacebookやtwitterを通じて拝読させていただいた。帰国子女の女子高生の林さんと、東京大学の教授である梶谷さんの投稿。ともに、「日本には哲学や社会情勢について話せる場所がな」く、さらにいえば「日本には何でも話せる場所がない」という問題提起。

結論から言えば、これらの問題が直面していることは、「世間的な会話(特定の役割に応じての会話)ではなく、一人の人間として、互いの関心を交換し合うような対話をする雰囲気がない」ということなのだろうと思った。

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問いと、必然性

子どものための哲学について、国内外の実践事例を調べながら、うーん、と考えてしまう。

既成のワークや実践に対する子どもたちの感想を読むと、全員ではないが一定程度「答えのない問いを強いられることへの反感」を持たれている。その感情は他ならぬ自分がかつて感じたことでもあったから、改めてきちんと考えておかなければと思う。

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英語と演劇

今日は、ご縁でとある小学生男子たち(4年と6年)に英語の家庭教師をさせていただいた。ご縁で授業をさせていただけるのは、とてもうれしい。

今日は、「英語では、身近なものを何と言うのだろう」という「問い」をもとにアクティヴィティを行おうと思っていた。しかし、直前まで迷っていた。うーん、この問いをどんなアクティヴィティにしよう。

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作業と、教育

京極さんがぼくのリレー記事にリレー記事を書いてくださった笑。こうした応答関係があることが嬉しい。京極さんの書き方を見ると、毎度どうも自分の書き方はむずかしく書いてあるなと感じる。そのあたりもブログ記事の投稿を通して改善していきたいところだ。

さて、京極さんのblog記事から触発されて思うところはいろいろあるのだが、この記事で伝えられるだろうことは「作業って、いいよなぁ」ということだ。

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子どもを見つめて

子どもに学ぶとは、教育実践のなかでよく言われることだ。大まかに定義するなら、自他の世界観を変えるような気付きを、子どもたちの言葉や振る舞いから得ることを言う。

子どもに学んでいるひとに出会い、子どもについて話しあい学びあうとき、なんとも言えず幸せな気持ちになる。

おそらくそれは、子ども(学習者)を見つめることを通して学び合う大人同士が、子どもも大人も含めた「人間性への信頼」を確かめ合っているからなのかもしれない。

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