【読了】藤田正勝『日本文化を読む 5つのキーワード』

グローバル化の波にさらわれている中、異なる文化や歴史を持つ隣人たちと「対話」することの困難が、この島の至るところで叫ばれるようになって久しい。本書は、そうした対話を行うきっかけを作るために、日本文化の自画像を芭蕉のとある文章を導き手に探っていく。

読了しての率直な感想としては、日本文化の「個性」の一側面と言える「無常」の系譜を、情感を持って映し出してくれる読みやすい新書、という感じである。

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↑「飛花落葉」というタームがキーワードの一つになっているのだが、
桜だけでなく、全ての「花」や「葉」が散ることに無常を感ずる感性が勘所になりそう。

日本文化に底流している(と考えられる)「無(常)」を尊び味わう感覚・情緒を、西行、親鸞、長明・兼好、世阿弥、芭蕉、そして西田へと辿っていくのだが、それぞれのアクターたちの「無常」に対するアプローチや視座の違い、大陸の禅仏教等との影響関係、その絡まり合いについて淡々と整理されていく様が読んでいて愉しい。

もちろん、日本文化の全体像が「無常」という概念のみで描ききれるものではないことは、筆者も承知済みだろう。そんな中でも筆者が「無常」の系譜を取り上げたのには、筆者の嗜好もあるだろうが、伝統的な人格性(天皇、英霊など)の永続性を価値の最終根拠にしているナショナリスティックなマインドセットを崩していくような意図もあるのではないかと邪推する。

とある保守系雑誌の編集長が若かりし頃、虚しい現代的生活の中で自らのアイデンティティを探した末、「万世一系」に付託したそれを見つけ出したことを述懐した文章を読んで以来、この島での政治的対立は社会を構想するリアルな政策上の対立ではなく、理想的な「人格性」をめぐる対立、「アイデンティティ」確立の困難に基づいているのかもしれないと感じている。

かつての学生闘争が、資本主義社会の中でどのような「人格」であることを選ぶかという、実存主義とマルクス主義の“合いの子”として展開したことを考えると、上記の仮説もありえそうなことではないだろうかと考えるが、どうだろう。

実際、自分のアイデンティティを自ら模索し、具体的な隣人や家庭や地域との関係性の中で形作ろうとするのではなく、すでに用いている言語、すでに暮らしている国家体制、すでに埋め込まれている歴史に求めようとするマインドセットを持つに至っている児童生徒たちを塾などで散見したことがある。

もしそうした児童生徒たちが、「無常」を底流にした日本文化に親しむとしたら、どうなるだろう。ありのまま移りゆく「自然」の中で、名声や富などの欲望に振り回される浮世の無理を抱えながらも、道理に適った形で“自然に”生きる、今ここの無常な命をそれ自体で愛し価値づけることができるような哲学を持つ、クニになったとしたら。

よく「国破れて山河あり」というが、おそらく国も山河も人も無常なるものとして捉える認識論・存在論の中で、永続的な価値への固執を手放すような価値論を提起し、この列島民にとって親しみやすい政治哲学を構想することが、おそらく今後10年近くで必要になってくるはずなのだ。これはもちろん妄想に過ぎないが、本書はそんな、無常の哲学に基づいた「日本なるもの」の再構成を促す一助になるかもしれない。