重松先生の授業分析の思想

授業分析は、現代ではあまり注目されていない研究手法だとは思う。けれど俺としては、実際の授業研究の手法としてまだまだ可能性がある手法だと感じている。特に、重松先生のそれは自分にとっては、普段の授業をみるときのベースになっている。

まとまったかたちで、いつか重松先生の授業分析の思想を紹介したいのだが、まずはこのまえがきの文章を紹介したい。

「わたくしの最も嫌いなことは、現場の教師が軽視されることである。社会の人からはもちろん、教師の仲間からでも、教師その人からでも、教師を侮蔑した言葉を聞くと、心の中で煮えくりかえるものを感ずる。
「先生と言われるほどの馬鹿でなし」という表現の裏にある、教師侮蔑の実態と戦おうと思ってからもう三十年あまり経っている。それだけにまた逆に、どういう点で、教師が軽視されるか、なぜ尊敬と軽蔑、力と無力とが交錯してくるか、ということについて、思い患ってきた。
わたくしにとって授業分析は、その戦いの一局面である。授業を、日々新たな営みとして、教師自身をみがき、その若さを永遠に保たせるものにするのに、この本が役立つことを望んでいる。
記録の中にあらわれてくる先生方や子どもさんたちは、実在の人である。わたくしの非力の故にその姿をとらえようとして誤っていることが多くありはしないかと、恐れている。非礼の点について御寛恕を乞うと共に、生き生きとした動きによって、わたくしの眼を開いてくれた子どもさんたちに、感謝する」(重松鷹泰『授業分析の方法』まえがき)

このまえがきを読むと、姿勢を正される思いがすると同時に、先生が軽視される状況は60年近く経ってもあまり変化していないかもしれないと感じてしまう。例えば最近、「学校のなかにしかいなかった先生より、学校外から転職した先生の方が、発想が豊かですよね」云々の話を、特に教育外の方からよく聴く機会があった。

確かに傾向としてあるかもしれない。でもそれは、ある仕事場のなかにある、他の社会にはないルールのなかで考えることがクセになるということであって、どの社会人も同じ傾向なのじゃないかしらと思う。外部の視点が内部の視点より良い視界も持ちうるということでしかない。

事実、新卒から教師をやっているひとで、ものすごい発想で学校にアートをゲリラ的に仕掛けちゃう先生もいるし、学校に自分でカリキュラムを作り上げちゃう先生もいるし、

企業連携どころか、地域の根深い差別を無くしてしまう働きかけを、子どもたちが生み出していく授業を創り出した先生すら、日本にはいたのだ。

先生の専門性は、教え方がうまい、新しい発想ができるといったことではない。先生が目ざしているところはそんなレベルではないのである。

こういう、教師の意義ある実践の歴史が知られていない背景には、教育実践史がまだまだ人口に膾炙していないことによるのかな、とおもう。

美術に美術史があり、地域に地域史があるように、教育実践には教育実践史があるのである。比喩的にいえば、その歴史にはダヴィンチのような先生もいれば、キング牧師のような先生もいるのである。

そしてその先生たちの面目躍如たる歴史の場面は、やはり授業なのである。その授業のもつ力を見えるようにし、教師自身がそれを活かせるようにしようと考えるこの視点こそ、授業分析の思想の本質に他ならないと、俺は考えている。

ちょいと横道にズレてしまったけど、言いたいことは共通しているはず。

先生、戦いましょう。